すべての思いは思わされている思いである?
以前「心のコペルニクス的転回」という記事を書いて、
「私の心は思いの主体ではない」
と考えたことがあります。
先日参加した信仰講座セミナーで、これと同じような話が出てきたので、改めて考え直しました。
以前の記事では、
「自分の思いはほとんどない」
と書いたのですが、セミナーでは、
「自分の思いはまったくない。すべての思いは思わされている思いである」
と断定されたのです。
本当ですか?
それはあまりに極端な話ではないでしょうか。
一体誰に思わされているのか。
2人の主体が存在します。
1人は、神様(善神)。
もう1人は、サタン(悪神)。
原理講論には、
「良心の主体は神である」
とあり、
「悪霊人の対象は、地上人の霊人体である」
とあります。
善神は人間の良心を通して働き、悪神は人間の邪心を通して働くというのです。
そして、良心も邪心も、思いの主体ではなく、対象なのです。
良心は善神によって良い思いを思わされており、邪心は悪神によって悪い思いを思わされている。
だから、
「人間には思わされている思い以外にない」
と言うわけです。
しかしそのように考えると、
「私の心とは、一体何なんだ?」
という疑問が湧きます。
私の心というものは、自分からは何も考えたり思ったりしないのでしょうか。
日常の実感からすれば、私は自分の心で考え、自分の心で思い、自分の心で好き嫌いを感じています。
動物のように本能で生きるのではなく、自分なりに思う。
その自由というものこそ、人間の人間たる所以ではないのでしょうか。
「人間には思わされている思い以外にない」
というのは、あまりにも非人間的な考え方ではないのか。
そのようにも思う反面、この考えには私という人間の正体を知る上で重要な何かが潜んでいるような気もするのです。
人間の心は、ただ主体に弄ばれるだけの愚かな対象ではない。
「私は誰を自分の主体とするか」
という選択をする能力があり、それがまた責任でもあります。
堕落前の人間には、神様以外の主体は存在しませんでした。
それゆえ、彼らが「私の主体は誰か?」と敢えて思い悩む必要さえなかったでしょう。
しかし、堕落後においては全く相反する2人の主体が存在するようになったために、堕落人間はいずれかの主体を選択しなければならなくなったのです。
どちらの主体も人間を我が手に所有しようとしています。
しかし我々の現実は、自分の選択自体をほとんど意識していないことが多いような気がします。
そして大抵は、悪神に所有されてしまっている。
そういう状態では私たちの心はどうなるでしょうか。
善神に真っ向から反逆しますから、原理的に生きることを嫌い、憎しみが溢れ、不平不満にまみれます。
そしてそれを「自分の思い」だと思い込んでいるのです。
セミナーでの断定を、
「この現実に目を開け!」
という意味に理解すれば、きわめて啓蒙的だと思います。
自分の心の主体を自覚的に選択する。
もちろん、善なる主体を選択しようということです。
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