メシヤの心は違うかもしれない
原理のみ言に、 「天は一度失敗した人やその民族、国家を再び用いることはない」 とあります。 天はそうです。しかし、メシヤの心は違うかもしれません。どういうことか分かりますか? だから面白いのです。 ギリシャ神話には、女性神が出てきます。男性だけでなく、女性が出てくるというのです。その女性神は、私たちの生活において、私たちが大きく発展することのできるすべての知恵を与えてくれる母なる神です。 (2014年12月20日 米国・ラスベガス 天和宮) |
真のお母様(韓鶴子総裁)が日本人ツアー集会で語られたみ言葉の一部です。
原理講論の復帰原理を見ると、次のような記述があります。
ハムの小さな過ちによってサタンが侵入するようになると、神は復帰摂理の対象であったその家庭全部を惜しみなく捨てられ、その結果、ノアの家庭を中心とする摂理は、失敗に帰してしまったのである。(314項)
予定論によれば、神はある摂理のために予定された人物が、彼の責任分担を果たさなかったときには、その張本人を再び立てて、摂理なさることはできない。(325項)
「惜しみなく」
という表現には、神様の摂理に対する峻厳な態度が強く滲み出ています。
しかし、お母様は、
「メシヤの心は違うかもしれない」
と言われるのです。
そしてそれを、
「面白い」
とも言っておられます。
何が面白いのでしょうか?
この後に「女性神」の話をしておられるのを見ると、
「男性神と女性神との違い」
を指摘しておられるようにも思えます。
原理講論で触れられている神は「男性神」。
だから、摂理に対して峻厳であり、失敗した者に温情を施して再び用いるなどということはできない。
峻厳さは男性神の特性ですが、それはまた男性神の限界でもあります。
これまでの復帰摂理の中で、神は男性神の立場で原理的な峻厳さを中心として摂理して来ざるを得なかった。
これは「性相的男性格主体」であられる神の限界であったのではないか。
そんなふうに考えることができるでしょうか。
しかし、女性神の活動が加わることができれば、神の活動範囲は大きく広がり、活動の仕方に変化が出てくる。
なぜ今、お母様はこのような女性神の話をされるのでしょうか。
基元節を転換点として、神様の呼び方が、
「天のお父様」
から
「天の父母様」
に変わったことと関連するように思われます。
男性神が持つ限界で、女性神だけにできることとは何でしょうか。
「私たちの生活において、私たちが大きく発展することのできるすべての知恵」
を与えることです。
生活は毎日繰り返すものです。
今日失敗したからといって、すぐに切って捨て、見放すことはできません。
我々は明日も生活していかなければならないのです。
しかも、失敗したとしても、それを教訓として、明日はもっと発展できるようにすることができるかどうか。
それは子女に対する父母の願いであり、とりわけ母の願うところでしょう。
「メシヤの心は(神様の心と)違うかもしれない」
と言っておられます。
メシヤは男性ですが、ここでは女性もそれに加わった、いわば、
「男女両性のメシヤ」
言い換えれば、
「無形の天の父母様の有形実体であるメシヤ(真の父母)」
と言ったらいいように思います。
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