ルター「機熟の宗教改革者として登場する」
今から498年前。
1517年10月31日、神学者マルティン・ルターは、ヴィッテンベルク大学の聖堂の扉に「95か条の提題」を張り出しました。
これが後に歴史的な宗教改革運動へと発展していくのですが、当初彼にはそんな大それた意図はなかったと思います。
彼自身はこれを神学的な問題だと考えていたので、この提題は一般の人には読めないラテン語で書かれていました。
ところがこの問題はドイツ諸侯の思惑も絡んでいたことから、ルターが投げた一石は神学論争の域を超えて、広く政治的な問題として拡大していったのです。
ルターが問題としたのは、当時の法皇レオ10世がサン・ピエトロ大聖堂の建築のための資金集めとして発行した「贖宥状(しょくゆうじょう)」でした。
贖宥状は法皇が発行し、ドミニコ派の僧侶テッツェルが巧みな弁舌で大量に販売していきました。
曰く、
「お金が箱の中でチャリンと音を立てさえすれば、魂は煉獄の焔の中から(救われ)飛び出してくるのだ」
曰く、
「法皇の紋印で飾られた十字架は、キリストの十字架と同じ価値が有る」
贖宥状とは何でしょうか。
ローマ・カソリック教会には7つの秘蹟(サクラメント)があり、その中の一つに「悔悛(告解)」があります。
そしてこの「悔悛」は3つの概念によって組織化された制度が立てられているのです。
まず、「痛悔」(コントリティオ)。
自分が犯した罪に対する心からの悔悟です。
次に、その罪を衆人の前に告白する「告悔」(コンフェシオ)があり、それに対して告白を受けた司祭が赦罪宣言を下します。
第3に、犯した罪に対する具体的な賠償行為が求められます。
それを「償罪」(サティスファクティオ)と呼びます。
具体的には、巡礼、断食、寄付などをするよう、細かな規定が定められています。
これは地上での償罪ですが、カソリックの教義にはさらに「煉獄」という霊界での償罪もあります。
贖宥状というのは、このような教会が定めたもろもろの罪に対する罰を赦免する免罪証書です。
どのような力(権威)によって赦免するのでしょうか。
イエス・キリストの十字架による贖罪。
さらには、歴代の諸聖人によって作られた徳の宝が教会には蓄積されている。
そのような徳の宝によって赦免できるというのです。
しかしこれは、ルターが「塔の体験」を通して得た救いの実感とは明らかに食い違います。
真の赦免は聖人たちの善行によって得られる「能動的義」ではなく、愛なる神によって無条件的に与えられる「受動的義」によるというのが、ルターの救済実感なのです。
この重要な問題を糾すために公開したのが95か条の提題だったのです。
原理の摂理的同時性によれば、西暦800年、法皇レオ3世がチャールズ大帝を祝福して戴冠式を行った時が、再臨主を迎える絶好のチャンスでした。
しかしこの摂理が成就できず、その後延長された摂理の中でカソリック教会は世俗化の度を深めていくことになります。
これを改革するために、フスやウィクリフなどの先駆者も現れたのですが、それらはことごとく失敗し、弾圧、処刑の道をたどっていました。
ルターはそれらの土台の上に登場したと見ることができますが、彼が先駆者たちと違ったのは処刑まで追い詰められなかったことです。
違った第一の理由は、摂理的な時代が熟していたことだろうと思います。
ルターの口を封じようとする勢力は当然いたのですが、その一方で、彼を助けようとする人士もいました。
彼はそういう人たちの加勢で一命を落とすことなく、生きながらえて宗教改革運動の中心的存在になっていったのです。
原理から見て、ルターの救済観が完璧だとは思われません。
しかし少なくとも、「雷の体験」や「塔の体験」を通して、神様が摂理的な時代を担う中心人物を用意周到に準備されたことだけは確かなことだと思われます。
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