ルター「義人は信仰によって生きる」
「雷の体験」を通して修道士への道を出発したルター。
しかし、修道士として厳しい修行に励めば励むほど罪の意識が深まり、
「自分は救いに予定されていない」
という確信に苦悩を深めることになったのです。
アリストテレスの手法を用いたスコラ学的なアプローチを試みましたが、そこにも限界を感じました。
神を理性で把握することは不可能であるという理解に至ったのです。
ヴィッテンベルク大学で聖書注解の講義を受け持つようになり、彼の心はパウロの「ロマ書」に囚われました。
なぜなら、福音の内には神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
(ロマ書1:17)
「神の義とは何か? 神の義は、それを完璧に行い得ない我々信仰者を、結局罪に追い込んでいるのではないか? 義人が信仰によって生きるとはどういうことか?」
このような「神の義」に対する執拗な懐疑の果てに、ルターは「塔の体験」によって、天国への門を見出すのです。
この体験は、ヴィッテンベルクの「塔の一室」での出来事であったので、こう呼ばれます。
彼がそれまで理解していた「神の義」とは、人がその善行によって獲得する「能動的義」であった。
しかし本当の神の義とは、神から無償の賜物として罪人に与えられる義、罪人を罪あるままに義とする恵みとしての「受動的義」ではないのか。
「能動的義」から「受動的義」へ。
憎しみと呪詛の対象でしかなかった「神の義」が、パウロの聖句を媒介にして、無償の賜物としての「神の義」へと180度転換してしまったのです。
信仰による義とは、行いによる義ではない。
苦行による義ではない。
善行による義ではない。
その知恵がルターに開かれたのです。
それまでルターを苦悩せしめたのは、キリストを抜きに、自分の力で罪を克服しようとするオッカム主義でした。
ところが、善いわざにいくら励んでも、内心の平和と良心の慰めは得られず、却って自己の罪に絶望する。
「ああ、私の罪、罪、罪」
と信仰者は絶叫する。
そのような信仰者に、オッカムは言います。
「それはあなたがいまだ義認の段階に達していない徴(しるし)だ。かかる罪はさらなる努力で克服されねばならない」
ところが、ルターはいくら血の滲む苦行を続けても克服できないのです。
彼が戦っていたのは、個人的な罪ではなかったのでしょう。
それよりももっと根源的な罪、人間存在それ自体の罪(原罪といってもいい)と戦い、到底それを克服し得ない自己の無力を自覚せざるを得なかったのです。
しかし、ルターは「塔の体験」を通して、それを克服したのです。
原罪を克服したのではなく、罪人がそのままで、信仰によって義とされ、地獄への予定からは解放されるという、神の愛と救いの実感を得たのです。
原理の観点から見れば、イエス様が十字架で亡くなってしまうことによって、信仰者には霊的な救いの道だけが開かれ、肉体に巣食う原罪はそのまま残存せざるを得ませんでした。
ルターはもとより、オッカムでさえ、その原罪を自力で克服することなどできる道はありません。
信仰者がいくら苦悩したとしても、神様はそれをそのまま認め、ただ再臨の時を準備するしかなかったでしょう。
イエス様の霊的な勝利によって、天国への門は開かれなかったとしても、天国への待合室である「楽園」を開くことによって、神様は信仰者たちへの愛を示されました。
「塔の体験」を通して、ルターの中に「信仰義認説」が確立され、いよいよ宗教改革者としての準備が整っていきます。
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