ルター「脅す神への恐怖」
「キリスト教の教えに対する統一原理の見解」
というサイトに、マルティン・ルターに関する記事が載っているので、取り上げてみようと思います。
ルターは、言うまでもなくキリスト教刷新運動「宗教改革」の立役者。
統一神学校での卒論で取り上げて以来、常に私の脳裏の片隅に住み続けている人です。
彼はエルフルト大学で法学を学んでいた学生時代、
「雷の体験」
をします。
帰省していたマンスフェルトの自宅から大学へ帰る途中、雷に撃たれて死にかけたのです。
その時彼は藁にもすがる気持ちで、
「聖アンナ様、お助けください。命が助かれば法学ではなく、あなたの御心に叶う道へ進みます」
と祈りました。
九死に一生を得た彼は、父親の大反対を押してエルフルトのアウグスティヌス修道院に入ります。
そこは厳しい戒律で有名な修道院でした。
その中でもルターは、人並み以上に厳しい修行を自分に課しました。
「拷問の(ような)苦しみを舐めた」
と振り返りながら、
「およそ修道生活によって天国に入れる修道士があったならば、私もきっと天国へ行ける」
と言うほどです。
修道院がなぜ修道士に拷問にも近い修行を課すかといえば、
「行いによって神の義を得て、救われる」
というカトリックの教えがあったからです。
ところが、彼は厳しい修行を自らに課せば課すほど、内面の葛藤に苦しむようになります。
神は神聖にして、全き正義の方である。
その神が「わが命ずるところを行え」と人間に要求し、行えなければ、その人間を審判し罰する。
ルターはその「脅す神への恐怖」から逃れるために、必死に修行に励んだのです。
ところが皮肉なことに、彼が修行をすればするほど、彼の良心は研ぎ澄まされ、自分の中の罪を自覚するようになる。
神は彼にとって、ますます恐怖の対象になっていったのです。
カトリック教会には「告解」という秘跡(サクラメント)があります。
その修道院で、彼ほど頻繁に告解を行った修道士はいなかったと言います。
しかし、罪を告白して赦してもらっても、次から次に起こってくる罪の思いに、彼は耐えることができなかったのです。
このような彼の内的葛藤は「予定」の問題にぶつかって、さらに深刻なものになっていきます。
「私は永遠な滅びに定められた者たちに属するのではないか? そうではないという保証をいかにして得ることができるのか?」
という、神の予定への恐怖。
命を救ってくださった神への約束から始まった彼の修道生活は、修行を通して葛藤の深淵に落ち込み、遂には「神への呪詛と憎悪」にまで至ることになったのです。
「義なる神が求める善行を行うのは、私には不可能だ。不可能を要求して滅びに定めようとするとは、裁きの神、報復の神である。そういう神を私は許せない」
使徒パウロもその書簡(ロマ書)の中で、自らの内面の矛盾を嘆いて書きました。
「私は内なる人としては神の律法を喜んでいるが、私の肢体には別の律法があって、私の心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、私を虜にしているのを見る」
イエス様は神様を、
「我が父よ」
と呼んだというのに、その同じ神を信じようとする信仰者たちは、却って神を憎むようになるのです。
しかし、ルターは長い苦悩の末、いよいよ大きな信仰の転換を体験するようになります。
それが「塔の体験」と呼ばれるものです。
この体験があってこそ、宗教改革者の道が準備されたのです。
もう少し続きます。
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