人類は真のものを探してさまよっている
私の心は体に、「真実なものを探せ」と命令しています。「まず真の体を探せ」と命令しているのです。それで今日、世界人類は何か知らないうちに真のものを探してさまよっているのです。堕落による怨恨の中にしみているこの世界に生きているゆえに、何か知らないうちに真のものを探さなければならない、こういう運勢に巻き込まれていっています。
(文鮮明先生のみ言葉)
「私は誰なのか?」
と問うことは、「真実なもの」を探す第一歩と言っていいでしょう。
しかしこの問は、少し大雑把かも知れません。
人は「私は誰か?」と問うたとしても、人には男と女の2種類があります。
それで、
「男としての私は誰なのか? 女としての私は誰なのか?」
と問うべきだと思われるのです。
1991年12月、文鮮明先生が韓国・済州研修院で女性修練生に語られたみ言葉「真の自分を探しましょう」の中に、
「女とは何者なのか」
というテーマがあります。
それによると、女とは、
「御+名」
つまり、
「女とは名ばかり。空の箱である」
と言うのです。
自分の中には何もない代わりに、その中に何を入れるかによって価値が違ってくる。
宝石を入れれば、宝石箱になる。
ゴミを入れれば、ただのゴミ箱になる。
しかもこの空き箱は、それこそ宇宙の何でも入れられるほど巨大なもので、神様でさえ入れることができるのです。
文先生によれば、これが女の正体です。
それなら、男とは一体何者なのか?
女が空き箱(対象)であれば、男はその箱の中に入れる宝を持つ主体です。
男がどんな宝を持っているのか?
それが、子どもの種だというのです。
種を持っているというのは、神様と同じ立場です。
これはもうどうしようもありません。
人間が変えようにも変えることのできない創造原則です。
女とは、神様から湧き出してくる生命の種を受け止めて、その種に滋養を与え、育てて実らせる「畑」だとも言えます。
一方、男は神様の種を実体に変換して畑に届ける役割、言ってみれば、神様の実体です。
それなら、男女ともに年をとって、子どもを妊娠することも出産することもできなくなれば、どうなるのでしょうか。
男女の正体は、年をとったとしても、さらには死んで霊界に行ったとしても変わらない、本質的なものでなくてはなりません。
女は永遠の空き箱でなくてはならないし、男は永遠の神様の実体でなくてはならないでしょう。
同じ済州院でのみ言葉の中で、
平和でない者は地獄へ行くのです。地獄です。心身紛争する者は地獄へ行くのです。
元の国に帰るには、真の愛というものが必要であり、真の愛というものは生命を投入して忘れる境地を越えないと出発しません。
とも言っておられます。
真の私とは、
「心身が紛争していない私」
です。
女も男も、本当の女、男になろうとすれば、「心身が紛争していない私」にならねばならないということです。
よろしければ1クリック!

にほんブログ村
【おすすめ記事】
- 関連記事
-
-
神様にとっての原罪 2012/03/11
-
私の中の基本感情 2014/10/01
-
過去を変える 2010/02/26
-
文先生を騙したのは誰か 2011/12/22
-
スポンサーサイト