真の私を探せない悲しみ
二世礼拝に続いて、先日は書写会でも「私は誰?」ワークをやってみました。
集まったのは壮年が5人と婦人が2人。
流れは二世の時とほぼ同じです。
ただ、二世と違ったのは、その場で50まで自己紹介文を書けたのは1人だけで、あとの人はかなり苦悶したことです。
書き終えた後、3つのチェックも入れてもらい、最後にそれぞれワークの感想を言ってもらいました。
感想を聞きながら、私が改めて思ったのは、
「本当の自分を知るというのは、簡単ではない」
ということです。
文先生のみ言葉に、
「相対世界の苦痛や悲しみがあったとしても、真の私を探せない悲しみと苦痛よりも大きい苦痛と悲しみはない」
とあります。
しかし実際には、「真の私を探せないこと」を悲しみとか苦痛だと感じることは少ないのです。
自分というものを何となく分かっているつもりで暮らしています。
ホ・オポノポノのヒューレン博士は、「真の私」とは何かということについて、
「天の光が100%通り抜ける私、無の私」
というように表現しています。
「私は誰なのか?」
と問うていくと、
「私はない、私は無である」
というのです。
そうであれば、
「私だ誰それである、私は何々である」
と言えば言うほど、却って真の私から遠のいていくのではないかとも思われます。
下手に「私」を持つと、神様の光を歪めてしまうか、遮断してしまうかも知れない。
「私はない」というのは、一つの秀逸な観点だとも思えます。
また、視点を変えて、もし神様から
「お前は何者か? 私にとって何者か? なぜお前としてそこに存在しているのか?」
と尋ねられたら、どう答えることができるでしょうか。
創造主にとって、なぜ私は存在しなくてはならないのか。
あの人もこの人も、人は無数に存在しているのに、なぜ「私」も存在しなくてはならないのか。
「私」という人間が存在する意義は、どこにあるのか。
神様から問われ、私の存在意義について考えれば、当然、神様に反問することも可能でしょう。
「そもそもあなたはなぜ、私を創造されたのですか? 人は無数に存在するのに、なぜ私を必要とされたのですか?」
「私は誰なのか」と考える時、
「私は誰から愛されている私なのか? 私は誰を愛している私なのか?」
と問うてみるのは、良い質問かもしれません。
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