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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

真の私を探せない悲しみ

2014/12/19
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20141219 

二世礼拝に続いて、先日は書写会でも「私は誰?」ワークをやってみました。

集まったのは壮年が5人と婦人が2人。
流れは二世の時とほぼ同じです。
ただ、二世と違ったのは、その場で50まで自己紹介文を書けたのは1人だけで、あとの人はかなり苦悶したことです。

書き終えた後、3つのチェックも入れてもらい、最後にそれぞれワークの感想を言ってもらいました。

感想を聞きながら、私が改めて思ったのは、
「本当の自分を知るというのは、簡単ではない」
ということです。

文先生のみ言葉に、
「相対世界の苦痛や悲しみがあったとしても、真の私を探せない悲しみと苦痛よりも大きい苦痛と悲しみはない
とあります。

しかし実際には、「真の私を探せないこと」を悲しみとか苦痛だと感じることは少ないのです。
自分というものを何となく分かっているつもりで暮らしています。

ホ・オポノポノのヒューレン博士は、「真の私」とは何かということについて、
天の光が100%通り抜ける私、無の私
というように表現しています。

「私は誰なのか?」
と問うていくと、
「私はない、私は無である」
というのです。

そうであれば、
「私だ誰それである、私は何々である」
と言えば言うほど、却って真の私から遠のいていくのではないかとも思われます。

下手に「私」を持つと、神様の光を歪めてしまうか、遮断してしまうかも知れない。
「私はない」というのは、一つの秀逸な観点だとも思えます。

また、視点を変えて、もし神様から
「お前は何者か? 私にとって何者か? なぜお前としてそこに存在しているのか?」
と尋ねられたら、どう答えることができるでしょうか。

創造主にとって、なぜ私は存在しなくてはならないのか。
あの人もこの人も、人は無数に存在しているのに、なぜ「私」も存在しなくてはならないのか。
「私」という人間が存在する意義は、どこにあるのか。

神様から問われ、私の存在意義について考えれば、当然、神様に反問することも可能でしょう。

「そもそもあなたはなぜ、私を創造されたのですか? 人は無数に存在するのに、なぜ私を必要とされたのですか?」

「私は誰なのか」と考える時、
「私は誰から愛されている私なのか? 私は誰を愛している私なのか?」
と問うてみるのは、良い質問かもしれません。

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