統一教会の自画像をどう描くか
話の流れで、「統一教会の自画像」について、一つの絵を描いてみようと思います。
(吉永煥・鮮文大学名誉教授の『新氏族メシアリーダースクール』を参考にします)
自画像の姿は、
「統一教会は三位基台を中心として12人を確保する家庭教会スタイルの細胞宣教型の教会」
というものです。
この自画像はこれまで私が体験してきたものとは全く様相の違うものです。
このスタイルは、当然のことながら、文先生から始まったと見ます。
1946年、文先生は啓示を受けて平壤(ピョンヤン)に行かれ、ある方の家庭を基盤として宣教活動を開始されました。
1948年から50年まで、文先生は興南(フンナム)監獄の中で12人以上の弟子を伝道されました。
1958年に最初の三位基台を編成して、戦略的な伝道が開始されました。
1960年から祝福が始まると、最初の3双から始まり、33双、72双、120双と、あたかも細胞が繁殖するように祝福が繁殖していきました。
1966年には教会員4倍化運動を展開し、18万人以上の教会在籍者数を確保したと言われています。
当時、文先生の主張は、
「祝福家庭の3人がリーダーとなって活動し、できるだけ早く12人が集まる組織を作らなければならない」
というものでした。
すると不思議なことに、キリスト教界でも1980年代以降、家庭教会、セル(細胞)教会の嵐が世界中で吹くようになりました。
その結果、一つの教会で数万から数十万の信徒を擁する巨大教会(メガチャーチ)が至るところで出現するようになったのです。
ところが皮肉なことに、当の統一教会ではその後、細胞繁殖が沈滞化し、急速な成長を遂げる姿が見られなくなりました。
その理由を吉教授は次のように分析します。
「初期においては小グループ家庭教会で集まり、心情文化が芽生える教会だったが、大聖殿ができるようになると小グループの活動が弱まり、大聖殿中心の教会になっていった」
実はこれと同様な歴史を、キリスト教も持っています。
初代教会は家庭で集まる小グループ家庭教会の伝道スタイルで、急速に発展していきました。
ところが、コンスタンティヌス大帝が313年にキリスト教を公認して以後は大教会中心となり、家庭教会で集まることがなくなっていったのです。
「宣教の不在」がその時から始まったのです。
宣教をしなくても、キリスト教国家が他の国を征服すれば、その国は自然とキリスト教国家になります。
当然ながら、自然発生的宣教は弱くなり、政権と野合した教会は腐敗を起こし始めました。
吉教授は、教会発展のためには2つの翼が必要だと言います。
一つは、家庭教会。
もう一つが、大教会です。
この内、繁殖の原動力は家庭教会にあります。
大教会はその繁殖の動きを側面から助けるという立場です。
そして、家庭教会が繁殖していく時の原理が、三位基台による12人の繁殖です。
文先生の中では、この原理はずっと一貫していたのではないかと思います。
1976年のワシントン大会勝利以後、すぐに「ホームチャーチ(家庭教会)」を発表されたのは、その現れとも見えます。
ちょうどその頃に入教した私にとって、「ホームチャーチ」という概念は新規なものに映りました。
そして、当時学生の立場では、実践するのに難しい指示でもありました。
しかし、それは決して新規なものではなく、むしろ統一教会の原型であり、文先生の変わらざる信念の原理でもあったのです。
今、その原型に回帰し、失った片翼を取り戻そうとする時に直面しているように思われます。
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No title
教育部長さま
まさにおっしゃる通りですね。
家庭教会と
大教会がうまい具合に
連結されたら素晴らしいですね。