幸せになるための書写ではない
昨日、書写奉納式の中で講師を務め、
「陰徳を受けた時は、もっと大きくして返す」
というテーマで話しました。
どんな言葉を書くにせよ、書写の目指すテーマは常に、
「どのようにして、より幸せになるか」
ということです。
「幸せになるために陰徳を積もう」
ということが今回のテーマとなるので、できるだけ分かりやすく、具体的に話したのですが、ここでは講演とは少し違う観点で、この「幸せ」ということについて考えてみようと思います。
「欲望が満たされた時、幸福を感じる」
と、原理講論の冒頭にあります。
欲望について分析した心理学者マズローによれば、人間の基本的な欲望は5段階に分けられると見ます。
生理的な欲望から始まり、最終的には自己実現の欲望に至るというのです。
しかしどんな欲望であるにせよ、
「何かをしたい、何かを得たい」
と願うということは、
「今の私にはそれがない」
という意識に基づいているのは間違いないでしょう。
「幸せになりたい」
と願うというのは、
「今の私はまだ(十分に)幸せではない」
と思っているということです。
幸せを求めて書写会に出る人は、どこかで、
「私の今の生活は幸せではない。満たされていない」
と感じているということにもなります。
こういう人はどこまで行ったら、
「私は幸せだ」
と感じて満足することができるでしょうか。
例えば、妻がどんなに忙しくても家事を一つも手伝ってくれない夫がいるとします。
妻の願いは、洗濯物だけでも夫に取り込んでほしいということです。
長年の苦心の末、夫はやっと洗濯物を取り込んでくれるようになりました。
すると、妻の欲望は満たされたので、妻は幸せになる道理です。
ところが、洗濯物を取り込んでくれた夫は、
「おい、今日は俺が洗濯物を取り込んでおいてやったよ」
と、必ず自慢気に報告するのです。
それを聞く度に、妻は、
「取り込んでくれるのはいいけれど、いちいち念を押さなくてもいいのに」
と、イライラします。
「黙って洗濯物を取り込んでほしい」
という新しい欲望が生まれて、妻はやっぱり幸せになれません。
欲望と幸せの関係をどう関連づけたらいいのでしょうか。
自分の「幸福のライン」を引くことです。
ラインを引かないと、どこまでいっても充足感が持てないのです。
例えば、
「洗濯物を取り込んでくれる夫がいることが幸せ」
というところにラインを引けば、妻はすでに幸せです。
ところが、
「黙って洗濯物を取り込んでくれる夫でないと幸せになれない」
というところにラインを引けば、妻の幸せはずっと遠のきます。
つまり、今手元にないものを探して不幸に留まるよりも、今手元にあるものを確認して、今幸せになる。
そのほうがずっといいのではないか、ということです。
書写会に幸せを求めて来るのではなく、今すでに自分が幸せであることを確認できる書写会であれば、もっといい。
そのように考えることもできます。
もう少し考えてみましょう。
なぜ自分は今、幸せだと感じないのか。
その質問に対して、心理学者アドラーは、こう答えます。
「それはあなた自身が、不幸であることを『選んだ』からだ」
自ら不幸であることを選ぶ人など、いるでしょうか。
いる、というのです。
選ぶ理由は、人それぞれで違うかもしれません。
しかし、自ら選んでいるという点はみな同じなのです。
夫が洗濯物を取り込んでくれないとしたら、そのような夫を望んだのは妻自身なのです。
あるいは、洗濯物を取り込んでくれない夫に満足できない自分の心を選んだのも、妻自身です。
ここで大切なのは、
「私はなぜ、このような夫の姿を望んだのか。あるいは、なぜ私はこのような夫に満足できないのか」
と、妻自身が自問してみるということなのです。
そう自問してみて初めて、自分の心の内を的確に覗き見ることができます。
そしてその時、
「夫をそのようにしていたのは、私自身だった」
ということに気づくのです。
洗濯物を取り込んでくれない夫を取り込んでくれる夫に変えることは、容易でないかも知れません。
しかし、取り込んでくれない夫でも満足できる心になることは、妻にとって比較的容易です。
自分の心が変わりさえすればできることだからです。
そうすると、幸福であるか不幸であるかは、ほとんど自分の心の問題であるということになります。
この結論は、イエス様の言われた、
「天国はあなた自身の心の中にある」
という聖句と一致します。
あるいは、仏教でいうところの、
「三界は唯心の所現である」
という聖言も近い意味かと思われます。
書写で幸福になるのではない。
結局、私たちはすでに幸福であったということです。
書写はそのことに気づく、一つの方法です。
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