心配によって、その問題は解決しない
今日久しぶりに教会で父母会を開き、参加した父母たちの話を聞きながら、
「心配の問題」
という言葉が頭に浮かんできました。
父母たちには、とにかく心配が多いのです。
息子がなかなか勉強しない。
娘は勉強が好きだが、地元の高校では希望大学への進学が難しい。
スマホ中毒で、夜中までスマホを離さない。
スマホで誰とどんなやり取りをしているのか、知りたくても知る術がない。
5人の子どもがみんな育ち盛り。
お父さんは多忙で、子育てに協力する余裕がない。
お母さんはてんやわんや 、生活に追われる。
いろいろな心配が、次々に出てきます。
「子育てに心配は尽きないな」
と思います。
私にも尽きない心配がありました。
あまりにも心配が多くて、常に心が重いので、ある時、こう自問したことがあるのです。
「ところで、心配は何の役に立つのか? 心配することによって、その問題は解決するのか?」
そう自問して、よく考えてみると、
「心配によって、その問題は解決しない」
という結論を得たのです。
それが「心配の問題」です。
なぜ解決しないのでしょうか。
例えば、
「息子は勉強しない。こんなことではいい大学にも入れないし、ちゃんとした生活ができるか心配だ」
という心配を持ったとします。
そうすると、勉強をしないでスマホをいじっている息子を見る度に、
「ちゃんと勉強しなさい。どうしてあなたは真面目に勉強できないの? 勉強しないと、結局あなた自身が後悔することになるのよ」
と小言を繰り返すことになります。
親自身は、それを小言とは思いません。
息子にとって必要で大切な「助言」だと思っているのです。
ところが、この「助言」の背後には、
「あなたは親の心配の種なのよ。あなたはいつも親が見て助けてあげないと、自分では何もできない人間なのよ」
という、親の無言のメッセージが隠れているのです。
そういうメッセージを毎日子どもに向かって繰り返せば、子どもはどうなるでしょうか。
「ぼくは、親の心配の種なんだ。信頼してもらえない、つまらない、価値のない人間なんだ」
という自己イメージを次第に作り上げていくことになるでしょう。
子どものために良かれと思う親のナイーブな心配が、実は、その心配した通りの子どもを作っていく。
皮肉な話ですが、考えてみると、「引寄せの法則」にもピタリと一致します。
そう思って以来、私はできるだけ心配を減らそうと考えるようになりました。
心配する代わりに、
「どんな時にも、俺はお前の第一の応援団だ」
というメッセージを送る親になろうと努力し始めたのです。
「何でもやってみろ。お前の可能性はどこまであるか計り知れない。借金してでも応援してやる」
と、ちょっと無理してでも言ってやれる親になりたい。
今なお、しつこく起こってくる心配と格闘しながらも、そう思うようになりつつあります。
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