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愛するゆえに信じる

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アダムは神のみ言を信じないで堕落してしまったので、「信仰基台」をつくることができなかった。したがって、彼はみ言の「完成実体」となることができなかったので、創造目的を達成することができなかったのである。

それゆえに、堕落人間が創造目的を成就し得る基準を復帰するためには、まず初めに、人間始祖が立てることのできなかった、その「信仰基台」を蕩減復帰しなければならない。
(原理講論「緒論」p.278)

創造原理の「間接主管圏」という項目の中で、
善悪の実を取って食べるときっと死ぬであろうと言われた神のみ言を信じて完成するか、信じないで堕落するかは、人間自身の責任にかかっていた
と説明されています。

これからすると、創造原理の中には、「信仰基台」という言葉こそ出てこないものの、「信仰」は元来、人間の責任分担であることが分かります。

その責任を果たせずに堕落したので、堕落人間は「信仰」の条件を立て直さなければならないというわけです。
それを緒論で初めて「信仰基台」と呼んでいます。
「信仰」というのは、人間が堕落して初めて必要となったものではなく、本来の世界でも求められていたものだったのです。

それなら、そもそも「信仰基台」とはどんなものでしょうか。
最初の引用から考えると、アダムが信仰基台をつくることができていたら、彼は「完成実体」になっていたはずだと読めます。
人間本来の責任であり、またそれを果たすことによって完成人間になれるような信仰。

信仰とは、どうもただ単に、
神のみ言を信じる
というようなことではないようです。

アダムの次男アベルは、自分の家畜の良いものを神様に供えることで「信仰基台」を立てたとあります。
ノアは方舟を建造することによって、またアブラハムは一人息子を供え物にすることによって「信仰基台」を立てました。
それで私たちも、何かを供えることで自分の「信仰基台」を立てられると考えたりします。

モーセの時代以降は、
「40日サタン分立基台の上で、神のみ言を中心に立つことができれば、信仰基台を復帰できる」
ようになりました。
それで、40数に該当する条件を立てれば、「信仰基台」が立つようにも考えたりします。

供え物や40数の条件も、意義のあることでしょう。
しかし、人間の完成に直結する条件だということを考えると、「信仰基台」の重点は、
愛が成長する
というところにあるのではないでしょうか。

アダムにおいては、エバを妹として愛する愛(兄妹の愛)を育て、天使を僕として愛する愛を育てるべきでした。
エバにおいては、アダムを兄として愛し(兄妹の愛)、アダムとともに天使を僕として愛するべきでした。
そのような愛は、結局、神様を父母として愛する愛(子女の愛)を土台としてこそ育つものでしょう。

神様のみ言を信じ、守ることによって神様への愛が育つのでしょうか。
それも間違いではないでしょうが、むしろ、神様を愛するがゆえに神様のみ言を信じ、守ろうとする、というのがもっと正しいように思います。

ということは、人間は堕落によって信仰を失ったということよりも、堕落によって神様への愛を育て切れなかったということのほうが、もっと深刻な問題だと言えます。
だからこそ、「信仰基台」の重点は、「愛の成長」に置くべきだと思うのです。

「信じれば、夢はかなう」
「必ずできると信じたから、信じた結果になった」

というように言うことがあります。

信じる力というのは、確かにすごいものだと思います。
しかし、いくら強く信じる人でも、愛が成長しなかったら、人間として成長することはできないでしょう。


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ドラミちゃん

昨日、日記を書いておられる透析患者さんのノートに、「愛する心」を書いたばかりでした。この方は、会社社長の立場から透析人生となり、日々生きることの苦悩と悟りを書き記しておられます。
鳩山邦夫さんは、組織造りに二人の名をあげ、一人は有能な人、もう一人は人気のある人を選ぼうとしています。このような意識で改革をねらうことに怒りを感じてしまいます。
本当に大切なもの、を伝えていくのは私達の使命でしょうね。

2010年03月16日 (Tue) 08:16
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