良心の願い「私自身に質問を向ける」
ですから、一生を生きていきながら、最も親しい先生であるこの「良心」に、
「私は今、正しく生きているか」
といつも尋ねなければなりません。
良心が自分の主人だという事実を悟り、心を磨き、生涯親しく過ごしてみれば、誰もが良心の声を聞くことができます。
良心が涙をぽろぽろ流して泣く声を聞いたら、その時にしていることはすぐ止めなければなりません。
(『平和を愛する世界人として』文鮮明著)
良心は誰の中にもあるものですが、自分の心とは別のものです。
良心は私の心とは別物であり、私が「自分の心」を磨き、生涯親しく過ごしてみてこそ、良心の声をはっきりと聞くことができるようになると、文先生は言っておられます。
文先生の有名な「良心宣言」によれば、
「良心は両親に優り、先生に優り、神様に優る」
というほどのすごいものです。
換言すれば、良心は私の父母であり、先生であり、神様であるということです。
私そのものではありません。
良心は常に「私の心」に親しく話しかけようとしています。
しかし、私が「自分の心」をよく磨かないと、その良心の声がよく聞こえないのです。
良心の声が聞こえるというのは、どういうことでしょうか。
私たちは誰であっても、多かれ少なかれ、良心の声を聞きながら生きているようにも思います。
しかし、本当の良心の声は生涯にわたって相当に心を磨かないと聞こえないというのです。
その声は、例えば、
「ぽろぽろと涙を流して泣く声」
です。
良心の声を無視して、あまりにもひどいことをすれば、良心は悲しんで泣き出す。
大声で泣いて、私を正そうとする。
良心の声を、私はそういうふうに聞いたことがあるだろうか。
良心の声を、泣き声として、嗚咽する声として聞いたことがあるだろうか。
良心の「痛み」として感じたことはあっても、「声」として聞いたことはないような気もします。
良心の声を聞くために必要な質問は、
「私は今、正しく生きているか」
というものです。
「お前は正しく生きているか」
ではありません。
良心の関心は、
「他の誰かが正しく生きているか」
ではありません。
「私自身が正しく生きているか」
ということだけです。
常に、自分自身の心に質問を向けなくてはだめなのです。
私たちは良心の願いに背くと、往々にして、
「あいつのせいで」
とか
「あの状況のせいで」
というふうに考えて、自分に質問を向けないことが多いのです。
「自分自身に質問を向ける」
これが、生涯、心を磨くということだと言えないでしょうか。
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