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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

個性真理体の愛

2014/10/19
訓読日記 0
20141019 

今まで神を信ずる信徒たちが罪を犯すことがあったのは、実は、神に対する彼らの信仰が極めて観念的であり、実感を伴うものではなかったからである。
(『原理講論』総序)

ここで言う「神を信ずる信徒たち」とは誰を指しているのでしょうか。
4000年間、万軍の主エホバを信じてきたユダヤ教徒でしょうか。
あるいは、イエス様以後2000年間、三位一体なる神を信じてきたキリスト教徒でしょうか。

それもそうだとして、今再臨主に従って歩んでいると自認している統一信徒も、この範疇に入る可能性はあります。

それにしても、ここで言う「罪」とはどんなことを意味しているのでしょうか。

傲慢、嘘偽り、詐欺、横領、窃盗、貪欲、殺人、姦淫・・・

このような罪を犯す可能性もあるでしょう。
毎週日曜日には教会の礼拝に参加しながら、教会の外では悪事を働く。
そういう人がいるとすれば、その人は確かに神を観念的にしか信じていないと言えます。

あるいは、メシヤが来られたのに、その方をメシヤと信じることができず、苦難の道に追いやった「信徒たち」も、取り返しのつかない罪を犯したと言わねばならないかも知れません。

しかし、こんにち、「神を信ずる信徒たち」が犯す罪は、そういうはっきりと目に見える罪だけではないように思います。

例えば、神を観念的にしか信じていないこと。
これ自体も、罪といえば罪かも知れません。

これまで多くのキリスト教神学校が経てきた、一つの共通の苦悩があります。

神学を学ぶと、信仰を失う
という、パラドクスです。

おかしな話に思えますが、よく考えると腑に落ちる点があります。

神学は、神様を「研究の対象」にしてしまうのです。
この時、研究をする神学者が主体で、研究される神様が対象になります。
それで、神学者は「信仰の主体」としての神様を見失ってしまうのです。

神様は「研究の対象」として収まる方でもないし、善悪正邪の論理で収まる方でもありません。
神様について考える時、すべてのことには「愛」が介在しなければならないのだと思います。

ある時、「個性真理体」について考えていました。

「神様が創造された被造物を、なぜ個性真理体と呼ぶのだろう?」

「個性」というのは、他に同じものが一つもないということです。
それで、「個性」をもつものには唯一無二の価値があります。

「真理体」とは、他のすべての被造物と同様、神様の基本形(二性性相)に似ているということです。
それで、「真理体」には神的な価値があります。

しかし、このような価値があると言って、一体何がいいのでしょうか。

私の「個性」を神様が無限に愛してくださっていると感じる時、
神様が愛してくださる個性が、私にはある
という喜びが生じる。

それで「個性」が私の価値なのです。

いくら「私の個性」を自覚しても、その「個性」を神様が愛してくださっていると感じられなければ、そんな「個性」は私にとって何の価値があるでしょうか。

「私たち一人一人は、すべて個性真理体だ」
といくら頭で理解しても、そこに神様の愛が介在していると感じられないなら、私の信仰は「観念的」だと言わなければなりません。

この時、私は神様の前に「罪」を犯している。
そのように言えないでしょうか。

私の家族、父母や子女の個性に神様の愛の介在を実感しているか。
教会の兄弟姉妹の個性を神様がこよなく愛しておられると実感しているのか。

そう考えると、私の信仰もいまだ相当に「観念的」だと断じざるを得ないのです。

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