ルネッサンスと宗教改革が目指すもの
ヨーロッパ中世の復帰摂理が行き詰まったところから、神様はこれをカインとアベルに分立する摂理を開始されました。
先に胎動したのが兄のカインで、これがルネッサンス(文芸復興)です。
その兄に続いたのが弟のアベルで、これが宗教改革でした。
兄のルネッサンスはその後さらに発展して、啓蒙思想となり、最後には共産主義思想として結実していきます。
それだけ見ると、ルネッサンスは神様の摂理の阻害要因だったようにも思われます。
しかし、元来ルネッサンスは外的な天国建設の動因だったと言えます。
原理講論では、ルネッサンス胎動の必然性を次のように説明しています。
① 人間は本性的に自由を追求する。
② 人間は本性的に人格の自主性を追求する。
③ 人間は本性的に理知と理性を追求する。
④ 人間は本性的に自然と現実と科学を追求する。
このような人間の外的な創造本性の発露によって、それを追求、実現するために、必然的に起こったのがルネッサンスであるというのです。
ルネッサンスが追求するのは、この世界の「合理性」です。
神様は一つの創造原理によってこの世界を創造されたので、この世界は合理的に成り立っています。
それで、天国を創っていくには合理性が必要なのです。
この世界の合理性とは、どういうことでしょうか。
私に適用されることは、あなたにも同じように適用される。
日本に適用されることは、世界のどこでも同じように適用される。
地球で適用されることは、地球の外でも同じように適用される。
さらに言えば、この世で適用されることは、同じようにあの世(霊界)でも適用される。
普遍的な原則は例外がない、ということです。
それで、人間の理知と理性は普遍的なものを求めます。
自然科学は必然的に普遍的な法則を求めるようになるし、人間社会の行動を規定する法律も、あらゆる人に適用しようとするのです。
文先生も、
「天国は法によって治めるべき時が来なければならない」
という趣旨のみ言葉を語っておられます。
これは、天国の外的な側面です。
ルネッサンスに続いて、宗教改革が起こりました。
聖職者による聖書の独占に反発するところから始まり、運動が進展していくにつれて、より内的な神、イエスとの合一を目指すようになっていきます。
原理は、この流れが今日の民主主義世界をつくっていく原動力になったと説明しています。
天国には普遍的な合理性も必要ですが、個人個人の神様との唯一的な関係も必要です。
神様は天宙的な神様であると同時に、私一人の中にも内在される個人的で親密な神様でもあられます。
神様はご自身が理想とされた天国をつくっていくにおいて、外的なルネッサンスと内的な宗教改革を、ともに必要とされたのです。
ところで、この内外2つの運動が最終的に求めていくべきものは何なのでしょうか。
それが、
「心情」
というものではないかと思うのです。
いくら全世界的にルネッサンスと宗教改革が進んだとしても、そこに行き着くことができなかったなら摂理の目的は達成されないといえるほどに重要なものが、この「心情」というものではないでしょうか。
例えば、文先生のみ言葉に、次のようなものがあります。
心情文化世界は、神様の本然の文化世界であり、堕落していない完成したアダム文化世界です。文化は二つではありません。言語も一つであり、風習も一つであり、習慣も一つであり、伝統も一つしかない統一の世界になるのです。そこにおいてのみ、神様が個人とともに住み、家庭とともに住むのです。(『祝福家庭』74号 p.26)
天国の行き着くところは、文化も言語も風習も習慣も伝統も一つしかない、心情を中心とした世界だというのです。
こういう観点から、文先生と韓夫人がなぜともに韓半島に、しかも1920年代から40年代にかけてお生まれになったのかということを考えていくことは、無駄なことではないように思います。
あの当時の韓国において、神様が願われる「心情文化」に最も近い形の文化や風習があったのだとすれば、神様はどうしてもそこに惹かれていかざるを得ず、また、そういう文化環境の中でメシヤを育てようとされたと考えても、決しておかしくはないでしょう。
この点における私の知識は乏しいので、韓日の文化的な違いなどを原理的に考察したセミナーを参考にして、今後、少し考えていければと思っています。
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