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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

神性を信頼する教育

2014/10/11
信仰で生きる 0
20141011 

二世礼拝の小学生部を担当してもらっている婦人から、
「これから小学生たちをどのように教えたらいいでしょうか」
という相談を受けました。

二世礼拝は小学生部と中高生部とに分け、中高生部は基本的に私が担当し、小学生部は2人の壮年とその婦人の3人で分担してもらっています。
壮年の一方が原理講義を担当し、もう一方が信仰生活的な内容を担当するというふうに決めており、2人とも担当が難しい時にはその婦人にやってもらうのです。

相談を受けて、私も改めて考えました。

先日の記事にも書いたように、二世には「神性」があります。

例えば、「
書写でここまで育つか、9歳の霊人体」で紹介した小学3年の女の子。
書写の言葉「私を憎むものまでも愛そう」を書きながら、クラスで実践したという証があります。

「人を責めない、陰口を言わない、喧嘩の原因をつくらない」
などといった目標を、誰に言われたでもなく自分で決めて実践していたというのです。

また、先日の中和文化祭の予選で聞いた高校3年生のスピーチも感動的でした。
中学生の頃、教会が嫌いで、礼拝に行く意味も分からなかったが、一つのみ言葉を実践してみて、やはりクラスの友だちを徹底的に愛してみたら、友だちも変わり、神様の心情が深く感じられた。
そういう実体験の証でした。

こういう証を聞くと、二世の中に太い神性の軸があるのが感じられます。
それをいかにより太く育てていくか。
その役割は、もちろん家庭にもありますが、教会学校としてもできることがあるでしょう。

婦人が言います。

「小学生の女の子同士、同じ学年なのに、礼拝で集まってもあまり口を利かず、別々に遊ぶ姿をよく見ます」

二世だからといって、無条件に仲間意識を持てるかというと、そんなことはありません。
タイプが違うと、なかなか近寄らないものです。

そこで、その婦人が工夫したことがあります。
礼拝の時に、そういう子ども同士をペアにして、一種のゲームをやらせるのです。

お互いに向き合って、まず片方が話し、もう一方がその話を聞く。
聞くときは聞くことに徹し、一切反論をせず、受け入れてあげる。
しばらくしたら、今度は役割を交替する。

そういうふうにしたら、普段はあまり口を利かない同士でも話すようになるし、話せば相手のことが深く分かります。

「こんなことを考えてるんだ」
というふうに、相手を見る目が変わります。

「その方法はいいですね」
と言いながら、私もあることに気づきました。

私が担当するときは、どうしても「ティーチング」になりやすいのです。
原理を講義する、聖書を教える。
どんな内容であれ、ティーチングの主体は、教える側です。

ティーチングはある意味、やりやすいのです。
教える側が教えたいことを教えたいときに教えることができます。

しかし、今よく言われる「コーチング」は、その主体が教える側ではなく、教えられる側なのです。
ですから、教える側が教えようとするのではなく、教えられる側が「気づく」のを待つ必要があります。

「必ず気づくはずだ」
という、相手への信頼は、相手の中の「神性」への信頼に由来すべきものでしょう。

そして、人は結局、自分で気づいたことしか、本気で取り組もうとは考えないものです。

二世教育において、二世の神性を信頼し、それを引き出そうとするアプローチをもっと重視すべきだと、婦人と話しながら考えさせられました。

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