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真の父母は別々ではあり得ない

kitasendo
20141006

先日、礼拝の後で昼食を食べながら、ある壮年の方と話した時のことです。

「お母様(韓鶴子総裁)は、取り巻きの幹部たちの意見を聞いて、結局は彼らの思うように決断し、指示を出しておられるんじゃないですか? お母様は霊界のお父様と一体となって、お二人共通のお考えを持っておられるというのは、本当でしょうか?」
というようなことを言われました。

「どこかで似たような話を聞いた気がする」
と思いながら聞きました。

私はちょっと違う考えを持っていたのですが、その時は次の用事ができて、じっくり話すことができないまま、
「また、次に話しましょう」
ということで終わってしまったのです。

いつまた話せるか分からないので、続きの話を仮想的にやってみようと思います。

文先生が聖和される前、最後の講演のみ言葉が、
実体み言葉宣布
と題されたものです。

その中の一節に、次のようにあります。

皆様!2010 年 天暦5 月8 日 午前2 時20 分と5 月15 日午前3 時25 分、このように両日にかけてアメリカのラスベガスにおいて神様を中心とした天地人真の父母様の特別宣布が行われました。....
すでに真の父母様御夫妻は最終一体をなして、完成、完結、完了の基準で、全体、全般、全権、全能の時代を奉献宣布されたのです。

ここで言われている、
「完成、完結、完了の基準で、真の父母様御夫妻は最終一体をなした」
ということの、厳密な内容は私にははかりかねます。

真の父母といえども、人間ですから「人性」はあり、それぞれの個性があるのは当然のことです。
ただ、「最終一体をなした」ということの重みを慎重に考慮する必要があると思うのです。

文先生には文先生の考え方とやり方と摂理の進め方があり、韓夫人にはまたそれなりの考え方と方法論がある。
これまでは文先生の統治時代であったが、文先生が亡くなった後、今は韓夫人の統治時代である。
統一運動の内実も形態も、統治する人によって変わる。

そのように考えれば、どうなるのでしょうか。

文先生と韓夫人とは別々である、ということになります。
これは、原理の根幹、復帰摂理の意義そのものに関わる、最も重大な問題だというのが、私の認識です。

原理講論のキリスト論の中に、
三位一体
という言葉が出てきます。

ゆえに、イエスは自ら(聖霊の実体とともに)神を中心とする実体的な三位一体をつくり、霊肉ともに真の父母となることによって、堕落人間を霊肉共に重生させ、彼らによって原罪を清算させて、神を中心とする実体的な三位一体をつくらせるために再臨されるのである。

神を中心として、再臨主とその相対者とが一体となる。
これを「三位一体」と言っているのです。

原理本体論によれば、神は本体的本体ですから、無形です。
目にも見えないし、触ることもできません。

それに対して、我々人間は死んでしまえば目に見えないといいますが、霊界に行けば霊人体という実体には形があるので、見えます。
そのような我々を「実体的存在」と言います。

本体的本体(神・厳密には夜の神様、天宙父母)と実体的存在との間に、「本体的実体」という特別な存在があります。
この存在を、文先生は「昼の神様」あるいは「天地父母」とも呼ばれました。

本体的本体であられる神様は無形なので、実体の世界と直接に関わることができません。
そこで、本体的実体を通して実体を持つことにより、実体の世界に「真の父母」として現れようとなさったのです。

これが「三位一体」の意味だろうと、私は思います。

無形の神様は、一方においてはアダムの形となり、もう一方においてはエバの形となって、有形の神様として現れるのです。
ですから、アダムとエバとは、絶対に別々の存在ではあり得ないのです。
神様を二性性相といって2つに分けることはできないのと、全く同様です。

このような意味から、文先生と韓夫人とは「最終一体」をなさなければなりませんし、実際にそう宣布されたということは、「真の父母」の位相を完成されたということでしょう。

救いを受けたすべての人々も「三位一体」をなすと原理講論は言っていますが、真の父母の三位一体とそれ以外の三位一体とは、本質的な意味で違っていると思います。
真の父母の三位一体だけが、無形の神様が形を取ることのできる唯一の三位一体だからです。

原理を信じようとするなら、そう信じるしか他に道はない、というのが私の考えです。

ちょっと、こ難しい仮想討論になったかも知れません。

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かんちゃん

三位一体の矛盾

三位一体の話ですが、論理的矛盾ですよね。
本来キリスト教では三位一体とは、神、イエス、聖霊となっています。聖霊とは正に霊的存在で、天使のことでしょうか?「聖霊を卑しめてはいけない」と書いてありますね。
 イエスは独身でしたから、神、イエス、聖霊となったので、イエスが結婚したならば
神、イエス夫婦、聖霊となります。これは実態世界でも同じように 神、夫婦、聖霊となり神を信ずることによって聖霊の助けがあって様々な現象が起きるのです。三位一体ですよね。これは、個人においても同じで、神、個人、聖霊となります。個人の中に心と体がありますね。原理は四位基台理論で上手く解説しています、
 しかし、原理の聖霊の実体のお母様としてしまえば、聖霊、霊的存在はどこに行ってしまったのでしょうか?お母様が全天使界を主管しているのでしょうか?(そうだと! といいそうですが・・) 説明してください。 三位一体論理では 神、父母 聖霊としなければならないのです。こうであるならば、RMが「アダムは変えられないがエバは何度でも変えることができる」とか、ヨスで「先生は離婚しようかな・・」とつぶやいた意味は納得できます。しかし、原理では神、イエス、聖霊の実体と書いているのです。だから、キリスト教神学との相合性を保てなくて、異端になっているのです。信仰的観点ではなく論理的観点ならば書き換えれば済む話ですが、メシアが説いたと言っているので、完全な論理的破綻と、なりませんかねえ。

2014年10月08日 (Wed) 10:00
教育部長

かんちゃんさんへ

聖霊については、私も文先生のみ言葉をあまり緻密に調べていないので断定的には言えませんが、聖霊は天使ではないだろうと思っています。
原理で言っている「三位一体」は確かにキリスト教の伝統的な「三位一体論」とはややニュアンスが違っています。敢えて「三位一体」という言葉を使わず、別の言葉にすればよかったのではないかという気もします。ただ、原理の趣旨は、無形の神様(本体的本体)の二性性相が実体として現れたアダムとエバ(本体的実体)の三者は決して分離することのできない一体の関係であるということだと思います。
イエス様の本来の目的も、実体の妻を迎えてこの三位一体を成すことだったでしょう。そのことは復帰摂理の中で、モーセに2枚の石版を与えられたり、火の柱と雲の柱で導いてくださることによって、神様が早くから象徴的に見せてくださっていたと思います。男性だけが実体で、女性が霊的では創造目的が完成しないのではないかと考えます。女性が実体として完成すれば、その時に聖霊の霊的な役割は終わるように思います。

2014年10月09日 (Thu) 11:20
kitasendo
Admin:kitasendo