自ら美を表現する人だけが美人になる
- 2014/08/15
- 14:46
夫婦における「愛」と「美」について、またそこから生まれる「喜び」について、『本郷女性講座』を参考に考えてみたいと思います。
人間が神様の喜びの対象であることは原理の根幹ですが、男性と女性とでその位置と役割が違うことも確かです。
男性は「神のかたち」そのものであるのに対して、女性は「美の対象」だと言えます。
女性の美の目的は何かというと、男性とその背後におられる神様を喜ばせることにその本質があります。
女性が神様に「侍る」というのは、自らの美をもって神様を喜ばせることだとも言えます。
ところで、女性の美とは何でしょうか。
その美は、まず、固定的なものではないということです。
例えば、我々が今日「美人」の代表と考えているのは、女優であったりモデルであったりしますが、大体は欧米型の美の基準に依っています。
その源はギリシャの「アフロディーテ」、いわゆる「ヴィーナス」です。
ヘレニズム文化は、幾何学的な理想型があると考え、視覚だけにこだわった女性の美の典型を作りました。
しかし実際のところ、「男性にとっての女性の美」さらには「神様にとっての女性の美」は、そのように幾何学的に決まった形があるものではありません。
美とは、その本質において、授受作用を抜きに単独で「これが美だ」と言えるものではないのです。
「主体が対象に授ける情的な力を愛といい、対象が主体に与える情的な力を美という」
と、原理にあります。
対象も主体に与えるのですから、女性の美とは、女性自らを主体としてみれば、女性の「愛」のことです。
男性の主体的な愛に対して、女性らしさに根ざした愛が様々な形で表現されるとき、それが真の「男性にとっての女性の美」となり、男性とその背後におられる神様を最高に喜ばせるのです。
つまり、人間の男女の場合、女性が「美人」であるかないかは、自らが美を表現するか否かによって決まるのであって、結局、自分が決めることなのです。
女性はその外貌の姿形に拘らず、自ら美を表現しなければ美人ではなく、自ら美を表現する人だけが美人となるのです。
訓母様は、大母様の役事を始める前には口紅を1本しか持っていなかったのに、神様の願いが分かるようになってから、30本に増えたと言われました。
化粧をよくして美しくなるというのは、まさに自ら美を表現するということです。
この「自ら美を表現する」ことを、文先生は、
「夫婦生活の芸術化」
と表現されました。
1993年から4年にかけて、文先生は10数万の日本人女性を集めた修練会で、夫婦生活をいかに芸術化するかについて、かなり詳細に教示されたのです。
この天の秘密を女性に教えられたということは、「夫婦生活の芸術化」の主役が男性ではなく、美の究極的な対象である女性だということに間違いないでしょう。
先日、清平でUさんと話した時、彼は、
「ねえ、教育部長さん、芸術というのは、それなしには生きることができないというほど、人間の止むに止まれぬ活動ですよね」
と言われました。
妻を霊界に送り、目の前に五感で妻を感知することのできなくなった夫にとって、妻の美を感じて生きることができるかどうかは、まさに死活問題なのです。
それゆえに、聖和夫婦には「芸術化された夫婦生活」が絶対的に必要なのです。
もちろん、これが必要なのは聖和夫婦だけではありません。
今地上に一緒に生きている夫婦にとっても絶対に必要なのです。
むしろ、地上に生きている間に夫婦生活を芸術化してこそ、霊界に行っても夫婦の愛と美が永遠に喜びとして続くと言うべきでしょう。
それでは、「夫婦生活の芸術化」において、女性は一体どんな役割を果たせばいいのか。
もう少し続きます。
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