「姿」はどうして似せ難いのか
前回の記事で、本居宣長の言葉「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」を論じた小林秀雄の『言葉』というエッセイを紹介しました。
エッセイの中ではタイトル通り「言葉」というものを中心に論じているのですが、私はそれを読みながら、少し別の考えもしてみたのです。
「姿」は形状、「意」は性相です。
神様を「意」とすれば、その似姿たる我々人間が「姿」と言えます。
そこで、「姿は似せ難く、意は似せ易し」を当てはめると、どうなるのでしょうか。
原理本体論では、神様を「本体」とも呼びます。
森羅万象の根源ではありながらも、その方自身には「像(かたち)=姿」はなく、目にも見えません。
そしてその方から、「姿」のある森羅万象が創造されます。
中でも人間は、神様の「姿」そのものだと言うのです。
神様の中には無数の「個別相」が存在し、それが元となって、無数の個性真理体が出現するのだと、統一思想は説明します。
ところが、元の「個別相」には「姿」そのものはないのでしょう。
その個別相が創造によって形状化するときに初めて、はっきりとした「姿」が顕現します。
そしてその「姿」は、独自的に考え、独自的に愛し、独自的に動くようになります。
その「姿」は本質的には神様の「意」に似ているのですが、その「姿」を見て、神様が驚かれます。
「私の中には、このような個別相があったのか! 私の形状はこのように考え、このように愛するのか!」
しかも、一つ一つの「姿」は唯一無二であるので、全く同じ(似た)「姿」は存在しません。
無理に似ようとしても、絶対に似ることはできません。
2人のピアニストが同じ楽譜で同じピアノを弾いたとしても、決して同じ音楽は現れてこないでしょう。
これが「姿」の本当に驚くべきところです。
この唯一無二の「姿」は、神様に内在する「個別相」を逆に規定するものでもあるので、絶対的です。
ゆえに、神様もこの「姿」を無視したり、軽んじたりなさることはできないのです。
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