姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ
小林秀雄という人は、亡くなってすでに久しいが、忘れがたい人です。
時々思い出して、書棚に並んでいる『考えるヒント』などを引っ張りだして、読み耽ることがあります。
難解なのですが、何度読んでも飽きないこの不思議な魅力は一体何であろう、と読みながら考えます。
例えば、『言葉』というタイトルのエッセイは、こう始まります。
本居宣長に、「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」という言葉がある。ここで姿というのは、言葉の姿の事で、言葉は真似し難いが、意味は真似し易いと言うのである。普通の意見とは逆のようで、普通なら、口真似はやさしいが、心は知り難いと言うところだろう。.... 言葉というものは恐ろしい。恐ろしいと知るのには熟考を要する。宣長は言葉の性質について深く考えを廻らした学者だったから、言葉の問題につき、無反省に尤もらしい説をなす者に腹を立てた。そんな事を豪そうに言うのなら、本当の事を言ってやろう、言葉こそ第一なのだ、意は二の次である、と。 |
この「言葉」というもの。
人間がその意を伝えるために操っていると普通に考えているこのものが、実は意そのものよりも重要である、と言うのです。
こういう、一見逆説的な宣長の主張が、思いもかけない深みを有しているということが、小林のエッセイを読み進めるにつれて徐々に得心されてくる。
この辺りに、私が掴まれて逃げることのできない魅力が内包されているような気がします。
小林はよく「常識」というものを論じます。
しかし彼の言う「常識」というのは、我々が普通、無意識、無反省に「こうだ」と思っている常識とは違うもののようです。
無反省な「常識」を一度疑ってみて、自分の直感(インスピレーション)で捉え直したことを「言葉」で表現してみる。
これが彼の「常識」です。
それで往々にして、彼の「常識」が世間一般の常識と、全く真逆になることさえあるのです。
しかも、理を尽くした説明のお陰で、彼の常識のほうが「なるほど、これこそ常識だ」と得心が行く。
これはつまり、彼の直感が、ただ単に彼だけの独特な直感ではなく、他の誰彼に届いてもおかしくない普遍的な直感だということです。
しかし実際には、その直感が我々にはうまく届かないために、彼のお陰で気がつかせてもらうのです。
「言葉」というものについて、小林は『スランプ』という別のエッセイでも取り上げています。
昔の話ですが、プロ野球の豊田泰光選手と酒を飲みながら話している折、スランプの話になりました。
野球選手がよく「スランプだ」と言うことがあるが、豊田選手に言わせれば、本当のスランプはプロの中でもその技術の練熟度が極まった選手の言うことである、というわけです。
なぜ、そういう一流選手がスランプに陥るのか。
そこが不思議なところです。
野球は言うまでもなく、高度に肉体にかかわる技芸だと言えます。
その肉体というのは、自分のものであるようでありながら、自分の言うことを聞かなくなることがある。
ここにスランプが生じる理由があります。
この豊田選手の話を聞きながら、小林は、
「物書きがしていることも、野球選手とそう違ったことをしているのでもあるまい」
と考えます。
そうだとすれば、物書きにとっての肉体とは何か。
それが「言葉」だというのです。
もっとも、小林にして、そのことに気づくのに随分の時間がかかったとも言います。
そして、こう言うのです。
「書くとは、分析する事でも判断する事でもない、言わば、言葉という球を正確に打とうとバットを振る事だ、と」
実際のところ、彼の作品はどのように出来上がってくるのでしょうか。
まず、意識の整備のために、精神を集中する。
ここに熟練の境地があります。
その後は、どうするのか。
ただ待つのです。
待っていると、どこからか着想が現れ、それが言葉を整え、小林の意識に何かを命ずる。
小林が自分の意識で言葉を選び出し、うまく整えて作品が出来上がっていくのではない。
ここが面白いところです。
小林にとって、どうやら言葉というものは、自分の思うままに操れるほど単純なものではないようです。
これを彼は、昔の言葉を引いて、
「凡そ芸事は思案の外」
と言うのです。
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