愛の基として愛する
神は天使世界を創造されてから、ルーシェルに天使長の位を与えられた。
それゆえに、あたかもアブラハムがイスラエルの祝福の基(もとい)となったように、ルーシェルは天使世界の愛の基となり、神の愛を独占するかのような位置にいたのであった。
(『原理講論』堕落論 p.108)
今から2000年前、イスラエル国にイエス様が来られた時、その方に直接出会い、その御言葉を耳で聞いた人は、同時代人の中の、ほんの一握りであったでしょう。
天からたくさんの雨が降ってきても、特定の場所に落ちる雨だれは、たった一滴です。
イエス様に伝道されて弟子になった人たちは、自分たちが奇跡的なほどに幸運な(と同時に、下手をすると恐ろしいほどに不運な)雨の一滴であると、果たしてどれほど自覚していたでしょうか?
イエス様の生前に裏切ったユダのような弟子もいたし、十字架で亡くなった後にはすべて四散してしまったことを考えると、この自覚は極めて難しいことが伺われます。
しかし、おそらく、イエス様はこの自覚をもっておられました。
それで、死を想定されるに及んでは、自ら弟子の足を洗うということまでされたのでしょう。
「お前たちとは、もう二度と、この地上で会うことはできない」
という、悲痛な心情を抱えての行動でした。
このようなイエス様が弟子を愛する愛し方は、まさに、
「愛の基として愛する」
というものです。
イエス様は全人類を愛し、救うために来られましたが、直接に会って愛し、教えることのできる人はごく限られています。
そこでイエス様は、今目の前にいて直接働きかけることのできる人を、全人類の代表として愛されたのです。
この、イエス様に直接愛された人が、
「愛の基」
です。
神様が天使長ルーシェルを愛されたのも、これと全く同じ愛し方でした。
膨大な数になる天使たちを全て愛する思いで、その代表者である天使長を愛されたのです。
この時、愛の基の立場に立った者が、
「自分だけが特別に愛されている」
と考えれば、非常に危険な過ちを犯すことになります。
その失敗者が、まさにルーシェルでした。
彼は、神様の愛を独占していたのではなく、
「独占するかのような位置」
にいたのです。
私たちも、自分が愛する主体の立場に立って考えれば、その愛し方は同じです。
毎日、いろいろな人に出会います。
その時、たった一度だけ「袖すり合う」人もいるでしょう。
また、今日たまたま、美しさの絶頂にある自然に出食わすこともあるでしょう。
無数にいる犬の中から、たった一匹だけを選んで、我が家のペットにして可愛がります。
私が今日出会った人を、全人類を愛するように愛する。
私が道端で見かけた一輪の花を、宇宙の花の代表のように愛する。
我が家に迎えた犬を、全世界の動物の代表のように愛する。
このように、私と関わりを持つあらゆるものを、私は「愛の基」として愛する。
それが最も正しい愛し方ではないでしょうか。
往々にして、私たちは、今自分の目の前にいる人やものを、あまりにも無頓着に考えます。
神様の愛し方は、いつも相手を「愛の基」として愛する。
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