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「他者の人生を生きるな」アドラー心理学で考える

kitasendo
承認欲求 

アドラーの心理学に沿って、もう少し考えてみます。
(前回の記事は「
世界は本当にシンプルか」を御覧ください)

承認欲求
という言葉が、心理学にあります。

自己の価値を確認するために、他者からの承認を求める欲求です。
心理学者マズローなどは人間の基本的欲求を5段階に分け、承認欲求を4段階目と規定したほどですから、どんな人にもあるとする考え方もあるわけです。

ところが、アドラーはこの承認欲求を断固否定します。

人は自分が幸福になるために他者から承認される必要もないし、むしろ承認など求めてはいけない
と言うのです。

なぜでしょうか?

人の承認を求める生き方というのは、賞罰を基準とする生き方です。

そういう人は、賞(=承認)をくれる人がいなければ、適切な行動をしない。
逆に、罰(=非承認)する人がいなければ、不適切な行動も取る。

卑近な例を挙げれば、職場のためにと思って、毎朝早く来て掃除をしたとします。
ところが、職場の仲間は誰もそれに気づかず、気づいたとしても、誰も「ありがとう」とも言わない。

それでも、あなたは掃除を続けるのか、ということです。

「みんなのために汗を流しているのに、誰からも感謝されないのであれば、やってられない」

そう思って、やめてしまうかも知れません。

結局、その人は他者が与える賞罰を基準として生きているのであって、自己の良心に従って生きる人ではない。
他者からの承認を求め、他者からの評価ばかりを気にして生きることになり、最終的には「他者の人生を生きる」ことになるのです。

アドラーは、こうも言います。

我々は他者の期待を満たすために生きているのではない。もしそうだとすれば、他者もまた、私の期待を満たすために生きているのではない。だから、相手が自分の思うとおりに動いてくれないと言って怒ってはいけない。それが当たり前なのだ。

あなたは、あなた自身の人生を生きなさい
と言うのです。

ここは、ちょっと慎重に考えてみましょう。

「私は相手の期待を気にする必要などない。私は私の欲求を満たすために生きるのだ」
と考えれば、極めて傍若無人で自己中心的な生き方のように感じられます。

しかし、アドラーの言いたいことは、そういうことではないようです。

「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、一体誰が自分のために生きてくれるのか」
というユダヤ教の言い伝えがあります。

神様が私に与えてくださった生命、それを生きる人生は、私以外に誰が責任を持つのでしょうか。
私以外にはいないでしょう。
他者にはその人の生命と人生があり、それはまたその人の責任です。

だから本来、人は他者の人生を生きることはできないのに、「承認欲求」に動かされると、最終的にはあたかも他者の人生を生きるようなことになってしまう。
それゆえに、「承認欲求」には気をつけろ、そんなものは求めるな、というわけです。

それなら、「承認欲求」を否定して、どのように生きるべきだというのでしょうか。

私は相手の期待を満たすために生きているのではなく、相手もまた私の期待を満たすために生きているのでもない。
とすれば、ここで「私の人生」と「相手の人生」とをはっきり分けてみる必要があります。

これをアドラーは、
課題の分離
と呼びます。

私の人生の課題と、相手の人生の課題とを、はっきりと分けて考えるということです。

相手の人生の課題をあたかも自分の人生の課題だと勘違いすると、どうなるか。
相手が自分の思い通りになってくれないと言って怒ることになるのです。

「課題の分離」
について、もう少し考えてみます。

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Admin:kitasendo