良心の呵責を教える道徳教育
世界日報に掲載されたインタビュー記事の一部抜粋です。
談話者は衆議院議員(自民党)宮川典子氏。
宮川氏は現在、党の教育再生実行本部のメンバーです。
★★★
ーー 道徳が教科化すれば、(学校における道徳教育は)変わりますか?
私は、道徳教育というのは良心の呵責を教えるものだと思っています。教科化の一番のポイントはそこです。
例えば、正しいことをやろうとしてもできないこともあります。その現実の前に、子どもたちがどんな答えを出すのかが大切です。
例えば、「いじめゼロ」というのはスローガンとしては正しいが、実際は非現実的だと私は考えます。
個性の違う人間が集まって生きている世の中で、どうしても受け入れることができないこともあります。
そこで、殴ってしまったり、なじってしまった場合、なぜ自分はそんなことをやってしまったのか、やる前に考えるべきことがあったのではないか、と考えさせない限りは、いじめ問題は改善しません。
だから、私はきれいなルールを教えるのが道徳教育ではない、という論者です。
それよりも、自分がやった悪いことや苦い経験と向き合って、その中で自分はどうすべきだったのか、ということを考えさせることのほうが、子どもにとってはよほど有益だと思います。
ーー 道徳の教科化に反対する理由として、道徳教育は学校教育全体を通して行うべきものだという声がありますが、そうではなく、学校生活を通じた道徳教育をより充実したものにするために(道徳の教科化が)必要だということでしょうか。
道徳教育への批判は2点あって、道徳は修身だという偏った考え方と、道徳は教科にすべきではないという考え方ですね。
要するに、修身は思考させずに教えこむだけだというのが反対論者の主張です。
しかし、私が考える道徳の教科化のポイントは「思考させる」ことです。
今、どの教科でも「考える力」が強調されていますが、残念ながら、子どもたちに考えている余裕はなく、詰め込むだけの授業になってしまっています。
道徳の時間だけは自分の心をフリーにし、自分の生き方や人間としてのあり方を考えるようにすべきです。
そうなれば、道徳の時間は他の教科を3時間やるよりも、価値ある時間となるでしょう。
(「世界日報」3月24日付 8面)
★★★
現在の道徳教育は、社会規範を教えることに限定されているとも、宮川代議士は指摘しています。
例えば、
「電車でお年寄りの乗ってきたら、席を譲りましょう」
とだけ教える。
しかし、実際そのような状況に遭遇したら、必ずしも想定した通りにはいかないこともあるでしょう。
せっかく席を譲ろうとしたら、かえって嫌な顔をされたとか。
そういう場合に、自分の行動や相手の態度をどう評価するか。
それに懲りて、二度と席など譲らないと決めるかどうか。
そういうことを「考えさせる」道徳教育が必要だと、宮川氏は言うのです。
道徳教育をより内面化させるとでも言うのでしょうか。
その究極が「良心の呵責を教える」ということかと思います。
文先生が言われるように、「良心」というものは誰の心にも植え付けられている「第2の神様」ですから、本来は教えなくても善悪をきちんと判別できるはずです。
ですから、これは「教える」というより、「良心の声に耳を傾けるように促す」とでも言ったほうがいいのかも知れません。
しかし、これは学校の教師にとって生易しい授業ではないでしょう。
教師自身が「良心の声を聴く」生活を率先しなければ、とても教えられるものではありません。
その意味で、やはり第1の教師は「父母」であると言うべきでしょう。
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