コピペは本当に問題か
科学の目的は、人類の外的な夢を実現するところにあります。ところが、過去においては、科学が民族的、国家的障壁に遮られ、素晴らしいものが発明されても、それが直ちに人類全体の福祉に寄与できない場合がたびたびありました。 ときには、科学文明にも国境がなければならないという主張もされました。しかし、科学文明は本質的に人類全体のものでなければならず、ある特定の国家や陣営の専用物であってはならないのです。 (「天聖経」) |
STAP細胞論文をめぐる問題は、賛否両論はもちろん、理系視点、文系視点、倫理的視点、組織管理的視点などの他、三面記事的な記事も入り混じって、百花繚乱状態というべき様相です。
私自身はこの分野にまったくの門外漢でありながらも、かなり深い関心を持って見守っています。
いろいろな論者の記事を読んだ中で、私にとって最も啓蒙的だと感じられたのが、武田邦彦教授(中部大学)の「公知」という観点でした。
小保方博士の論文に発見された「コピペ」は、学者としての基本がなってないし、倫理的にも看過できないとする論が多く見られます。
それに対して武田教授は、「公知」という観点から、小保方博士のコピペは何ら問題ないと言うのです。
以下、武田教授の論旨をお借りしながら、少しまとめてみようと思います。
(武田教授の議論はここなどを参考にしています)
現世の多くのものには、所有者がいます。
土地にも家にも車にも所有者がいて、それを勝手に使えば犯罪となります。
我々はそれが当然の世界に生きているのですが、学問の世界はそれと違うところがあるのです。
人間の「知」「情」「体」などから生まれた「知恵」「芸」「武(スポーツ)」などというのは、人類共通の財産です。
特定の所有者がいないのです。
それが古来、長い期間にわたって続いてきました。
ところが、18世紀になって、これに例外を2つだけ設けようということになったのです。
その1つが「著作権」。
もう1つが「工業所有権」です。
しかし、この例外にも厳格な制限があります。
誰かの書いたものがすべて著作物になるかというと、そうではありません。
今の著作権法で定められているのは、
「思想または感情を創作的に表現したものであり、文芸、学術、美術、音楽の分野に属するもの」
です。
この規定からすると、単なるデータや事実、あるいは工業製品などは著作物ではありません。
それで、もう一つ別に「工業所有権」というものを定めたのです。
この「工業所有権」においては、自分が権利にしたい範囲を明確に示して、特許庁に申請し、承認されたものに限られます。
そうすると、著作権と工業所有権のあるもの以外は、誰でも何の制約もなしに使うことができると考えられるわけです。
著作権法第32条には、
「公表された著作物は引用して利用することができる」
とあります。
逆に言えば、著作物でなければ、引用の必要がないのです。
二つの例えで考えてみましょう。
人が家を出ると、「公道」を歩きます。
その時は、誰に断わる必要もありません。
「公道」は人類共通の財産だからです。
「公道」から「公園」に入っても大丈夫です。
「公」というのは、人類共通の財産ということであり、特定の誰かの所有物ではないのです。
もう一つ、例えば、17歳の体操選手、白井健三が編み出した「白井飛び」。
これは彼が努力して工夫し、成功させた新技です。
しかし、彼が成功させた後、他の誰が同じ技に挑戦しても構いません。
それは「公技」だからです。
それと同様に、科学の成果は著作物ではなく、「公知」だと考えれば、これは人類共通の財産であり、誰が使っても構わないということになります。
このような理屈から、武田教授は小保方博士のコピペには何の問題もない、と言うのです。
むしろ、学問的にはそのほうが「倫理的」だとさえ言うのです。
私は、この「公知」という考え方は非常に重要ではないかと思います。
2つの例外を設けたことも、元来は所有権を主張することに主眼をおいたのではなく、むしろ、それ以外の大半の知恵を誰もが自由に使えるという「自由の保障」に、その意味があります。
文先生が、
「科学文明は本質的に人類全体のものでなければならない」
と言っておられるのも、次元こそ違っても、同じ意味だろうと思います。
科学の叡智には、国境を作ってもいけないし、特定の陣営がその叡智を専有してもいけない。
そのようなことは、神様の本来の創造原理に反する。
人間が科学を通して発見する知恵は、元来神様の知恵なのですから、発見したと言ってその本人が勝手に所有できるような代物ではありません。
神様の知恵は「公知」であり、神様の創造されたものは「公物」です。
武田教授が学生たちに、
「自然の中において、人間には『自分』というものはないのだ」
と教えると、きょとんとする学生が多いと言っています。
もしかして、STAP論争に関わっている多くの学者たちの中にも、このように考えない人が多いのかも知れません。
「私が発見したものは、私のものだ」
そう考えることによって、国境(境界線)を作っているのではないでしょうか。
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