私の家庭を「天国の出発点」にするには
我が教会は組織を4つのエリヤに分割しています。
エリヤごとにまとまって伝道に取り組む。
そういう方向に移行しつつあります。
今日初めて、エリヤ主催の書写会が企画され、私が講師として呼ばれました。
参加者の書写体験の証、全員揃っての書写行、終わってからは全員で鍋を囲み歓談、というプラグラムの中で、私に与えられた講話時間は20分。
「家庭は天国の出発点」
これが今日の講話のタイトルでした。
文先生の自叙伝『平和を愛する世界人として』の一節から引用したものです。
文先生はその自叙伝の中で、
「家庭は神様が創造された最高の組織です」
と言っておられます。
家庭は、ふつう人間同士が寄り合って作るものと考えます。
しかし、家庭の本質は神様が考えに考えた挙句に「これが最高の形だ」と結論して創造された組織だということです。
そういう意味で、家庭を「神様の目」から見る必要がある。
それが、今日の私の話のポイントでした。
家庭を池に喩えることができます。
池の中には何匹もの魚が泳いでいます。
しかし、その魚たちが心地よく泳ぎ、いつまでも生きていくためには、清浄で酸素豊富な水が絶対に必要です。
魚は、家族。
水が、神様の愛です。
ゆえに、神様の愛がなければ、家族は必ず窒息死します。
神様の愛を、別名「真の愛」と言います。
今の世の中にも「愛」はありますが、そのほとんどは「真の愛」とは言えそうにありません。
ふつうの「愛」と「真の愛」は、どこが違うのでしょうか。
文先生の教えの核心を、
「為に生きる」
と表現できます。
文先生の言われる「為に生きる」には、2つの条件があります。
一つは、自分を犠牲にして与えること。
もう一つは、その与えたことをすっかり忘れ去ってしまうこと。
一つ目はもちろんですが、この二つ目の条件をも含むことが「真の愛」の要件です。
いくら一生懸命に与えたとしても、この条件が満たされない限り「真の愛」と言えないのです。
ところが、これは私たちにとって極めて難しい条件です。
私たちの脳の記憶メカニズムは、自分が与えたことは極力忘れない、というふうになっていると思われるからです。
妻から
「これをしてほしい」
と頼まれると、
「それは10年前にしてやったじゃないか」
と答えてしまう。
どうしたら、与えたことを忘れてしまえ、神様の愛を相続できるのでしょうか。
一つは、適当に認知症が進むにまかせることです。
年をとるにつれて段々物忘れがひどくなるというのは、神様からの有り難い贈り物だとも思われます。
もう一つは、妻や子どもから何か頼まれたとき、
「それ、もうやったじゃないか」
とは決して言わないこと。
このようにして、神様の真の愛を真似ること。
これが「私の家庭を天国の出発点」にする方法です。
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