「他我主義」思想を語ろう
個人主義思想はあり得ません。自体自覚から、自分に利益になるようにしようという思想を中心としてエバが天使長と一つになったため、その道を否定しなければなりません。今までは「他為」思想について語りましたが、これからは「他為」ではありません。「他我主義」(他人と私はひとつであると考える主義)思想を語らなければなりません。 「他」とは何かといえば、「我」だというのです。相対が「私」だというのです。カイン世界のために生きなければならないというのですが、そうではありません。一つの体なので、一つにならなければならないのです。「他為」的思想の時代ではなく、「他我」的思想時代です。「私」が相対を創造し、「私」と一体化させ、より大きな「私」にできる道を行ってこそ、天に帰るのであって、自分第一主義で進んでいく人は天国に行けません。これが原理です。 (「天聖経」p.446) |
文先生の哲学の真髄を一言で表せば、
「為に生きる」
というものだと、昔から聞いてきました。
しかし、この「為に生きる」という言葉の響きは平凡な感じがして、
「これはだれでも言いそうなことだ」
という、どこか物足らない思いを拭うことができませんでした。
ところが最近、天聖経を読んでいて、こういうみ言葉に出会ったのです。
「為に生きるとは、自分を犠牲にして相手のために与えることです。そして、与えたことを完全に忘れることです」
私はこれまで、このみ言葉の前半だけを知っていたのですが、後半があるということを初めて知りました。
そして、この後半こそが重要であり、また不可欠であるということを悟りました。
文先生が言われる「為に生きる」という哲学は、世間一般に流布する単なる道徳の徳目ではありません。
犠牲を払って与えることはもちろんですが、重要なのはそれ自体をすっかり忘れ去ってしまうことなのです。
これができてこそ、真の意味での「為に生きる」が実践されるのです。
ところで、冒頭のみ言葉は、それをさらに超えています。
今までは「他為」つまり「相手の為に生きる」と教えてきたが、もはや「他為」でもない。
「他我」である、というのです。
「他為」においては、「私」と「相手」が別々です。
私とは別の存在であるがゆえに、その相手の「為に生きる」という考えが出てきます。
しかし、「私」と「相手」とは、別々の存在ではない。
「私」と「相手」とは、一つである。
「他」とは何かといえば、「私」である。
「相手」が「私」である。
そうなると、もはや「相手の為に生きる」という考えそのものがなくなってきます。
私が相手の為に生きるのではなく、相手を創造する。
そして、私と相手を一体化する。
すると、より大きな「私」が現れるようになる。
それを文先生は、
「他我主義」
と呼ばれるのです。
これは本来、神様の主義でしょう。
人間も完成すれば、神様と「他我」一体となって、より大きな神様が現れるはずでした。
神様にとっては人間が、人間にとっては神様が、自分以上に価値ある存在なのです。
ですから「個人主義思想」はあり得ないのです。
ところが、天使が「自体自覚」に目覚め、エバもそれに続きました。
その結果、「私」と「相手」が別々の存在になってしまったのです。
結局、「為に生きる」のは、「他我主義」へ完全回帰するための道程だということになります。
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