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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

最高の真理中の真理とは何か

2014/02/21
瞑想三昧 0
sinri 

先日の記事で、
「大半の人は真理など知りたくないのです」
という女神アテネの言葉を紹介しました。

そして、
「真理で伝道するというのは悩ましい問題だ」
と最後に書いたのですが、後で考えてみると、女神の言葉によって本当に考えたかったのは、こういうことではなかったような気がしました。

女神は、一体何を「真理」と言っているのだろうか。
「真理」とは一体何だろうか?
このことです。

先ず、文先生の次のみ言葉を読んでみてください。

皆様がもし神様と談判し、霊界に入って啓示を受けて分かったとしても、それを信じることができますか。このレバレンド・ムーンがそのような話をしても信じることができないというのです。ですから、はっきりとした証拠のある内容によって、真理に基づいた提示をしなければなりません。(『平和経』p.370)

これは「キリスト教の新しい未来」と題する、文先生の米国での講演文の一節です。

この講演の中で文先生は、
「イエス様の第一次の目的は何であったか」
「洗礼ヨハネは彼本来の使命を果たしたのか」
ということについて、さまざまな聖句を引用しながら、極めて論理的に懇切に説明しておられます。

しかし、この内容の本質は、文先生が「霊界に入って啓示を受けて」悟られたものです。

ところが、それをそのまま、
「私が神様から直接に聞いたことだから、信じろ!」
と言っても、信じさせることは難しい。

それで文先生は、それを一般の人々が信じることができるように、聖句という「証拠」によって、「真理に基づいた提示」をされたのです。

この「真理」は、「聖句という言葉」に基づいて表現された「論理的な言葉」です。

極めて論理的に、
「洗礼ヨハネの使命不履行によって、イエス様は第一次の使命を果たせないまま殺害された」
ということを論証されるのです。

高度な説得力があります。
しかし、こういう真理を、多くの人々は知りたいと思わないのでしょうか。

そういう場合もありそうです。
なぜかと言うと、この新しい真理は、これまで多くの人々が「真理だ」と信じてきたものと、あまりにも違うからです。

文先生が論証される真理を受け入れようとすれば、それまでの自分の「真理」を捨てなければなりません。
だから、多くの人々は知りたいと思わないのです。

ところで、文先生が言われる「真理」には、もっと別の、そしてもっと深奥な意味もあるように思われます。

次のみ言葉はどうでしょうか。

神秘的な境地に入って、人間が探し求めるべき宇宙の最高の真理が何かと打診した時、その時に得た答えが、父子関係という言葉なのです。(『天聖経』p.375)

男性の前に最高の真理が女性であり、女性の前に最高の真理中の真理の本体が男性なのです。(11回開天日 1998.10.3 サンパウロ)

「宇宙で最高の真理は、父子関係」

これも言葉といえば言葉ですが、単なる言葉を超えています。

さらに、
「男にとっての最高の真理は女、女にとっての最高の真理は男」

これはもはや、「言葉」ですらありません。
男も女も、実体です。
何と言ったらいいのでしょうか?

私が男であれば、私の眼の前にいる女(妻)が、最高の真理である。
妻という存在そのものが、真理である。
あるいは、私と妻とが結ぶ「愛の関係」の中に、真理がある。

これをも「真理」というなら、大半の人はやはり知りたいと思わないでしょうか?
たとえ知りたいと思わないとしても、この真理を避けて生きることはできません。
人生は、この「真理」そのもの、と言ってもいいでしょうから。

「知りたい」とか「知りたくない」とかというような次元の話ではありません。
これまで我々は、自分の目の前にいる「夫」あるいは「妻」を「最高の真理」だなどと、想像さえもしたことがなかったのです。

この「真理」はあまりにも奥深いので、1回の記事では到底窮め尽くせるものではありません。

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