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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

「入門」よりは「卒業」に重点を置く

2014/02/07
訓読三昧 0
卒業 

学校に入学すれば、所定の課程を履修することによって卒業しなければなりません。
このように、教団も伝道と宣教を通して信仰の道への入門を強調する以上に、個々人を教育、修練し、人格完成を通して生活信仰者として育成し、卒業させることを、より一層重要視しなければなりません。
(「平和経」 P.274)

文先生はもともと、何か新しい教団を創設しようと考えた方ではありません。
既存の宗教、とりわけ2千年間、神様によって特別に準備されたキリスト教の人たちが文先生と歩調を合わせていれば、「信仰の道への入門を強調」する必要はなかったでしょう。

すでに信仰の学校に入学し、所定の課程をもう少しで履修し終えようという人々には、最終的な教育と修練を施しさえすれば、人格完成し、信仰の学校を卒業させることも難しいことではなかったと思われます。

ところが、そのように準備された人たちが快く応じようとしなかった時、イエス様が、
「いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧乏人、不具者、盲人、足なえなどを、ここへ連れてきなさい」(ルカ福音書14:21)
と言われたような事態が起こったのです。

私もその一人で、文字通り「町の大通り」を歩いている時に導かれました。
導かれてから「信仰の学校」に入学したのです。

それ以来、所定の課程を履修し続けてきたような気もしますが、卒業などは容易でなく、今学校の何年生くらいにいるのか、自分でも定かではありません。

今でも私たちは「信仰への入門」を強調する一方、いかに速やかに信仰の過程を履修し、信仰生活者となって学校を卒業するかということに、十分な意識を向けていないようにも思えます。

信仰の過程を卒業した信仰生活者とは、どんな人なのでしょうか?

その人には、信仰という枠が不要になります。
しかし、枠がなくても、自由でありながら正しい人生を生きていける人です。

学校で学んだ基礎がしっかり身につき、それによって自分の能力を存分に発揮できるので、その人は既に学ぶのではなく、周囲の人を助ける人になっているのです。

「入門」よりは「卒業」に重点を置く。
そういう意識転換が必要ではなかろうかと思います。

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