宗教と科学を対立させるもの
- 2013/12/07
- 00:47
原理講論には、
「宗教と科学とは、心と体の関係になるが、これまでは互いに相容れないものとして対立してきた」
と解説しています。
この「対立」は一体何が作り出してきたものだったのでしょうか。
有名な「ガリレオ裁判」というものがあります。
これは一見すると、
「地動説 V.S. 天動説」
という構図に見え、
「どちらが正しく、どちらが間違っているか」
という科学と宗教の闘いのようにも見えます。
ところが、当のガリレオ自身はこの両者を対立するものと捉えてはおらず、それらは互いに調和して存続するものと考えていたのです。
それに対してキリスト教会は、問題点を違うところに見ていました。
中世まで西欧世界はキリスト教が支配する世界でした。
しかしそれは、より具体的に言えば、キリスト教会が支配する世界だったのです。
キリスト教は聖書に根拠を置いていますが、聖書のどの部分をどう解釈するかは、教会に絶対的な権威がありました。
ガリレオの何が問題だったかといえば、一平信徒に過ぎないガリレオが、その聖書の再解釈を迫るように見えたことです。
「教会の聖職者でもない平信徒ごときが、何の権威をもって聖書を再解釈しようとするのか」
教会から見れば、ガリレオの所業とその思想は許しがたい「傲慢」と見えたのです。
結局、ガリレオ裁判が意味するところは、
「正しい知識を生産し普及させる権威は誰が持っているのか」
という、極めて政治的な闘争であったというわけです。
本来、政治というものは宗教と科学とを調和させる「仲介者」の役割をするべきものなのに、実際には、権威を保とうとする人間の堕落性を弁護する道具となってきた面があります。
近年では、ID(インテリジェント・デザイン)理論をめぐる論争があります。
ID理論とは、この宇宙とそこに生存する生命は高度な知性(インテリジェンス)によって設計(デザイン)されたとする考え方です。
この理論には、当然ながら、進化論系のダーウィニストなどから相当な反論が出ています。
この論争の構図は、先の「ガリレオ裁判」と反対のようにも見えます。
進化論は現代では科学の装いをまとって、多くの人々に「科学的な真理」のように見做されています。
それに対してID理論は、ある意味で聖書の世界に回帰したようにも見えます。
「ガリレオ裁判」の時には強力な権威を持つ教会が、小さなガリレオを「傲慢だ」と見做して叩きました。
ID論争では反対に、科学的な権威を持つ進化論が、小さなID理論を「古臭い宗教に戻るのか」と言って叩いているのです。
この論争にも、
「どちらが正しく、どちらが間違っているのか」
という論点とは別に、不本意な意味での「政治的」な要素が含まれているように思えます。
ガリレオが考えていたように、結局、宗教と科学との対立は、
「どちらが正しいか」
という問題ではありません。
この2つは調和すべきものです。
対立を生み出してきたものは、宗教と科学それ自体ではなく、人間自身の「傲慢(堕落性)」だということになります。
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