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助ける人と助けられる人

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ある時聞いた証しですが、脚色していますので、フィクションとしてお読み下さい。

統一教会におけるエクレジア(初代教会)の時代、とても教会を助けた篤志家がおられました。
資産家であったその方は、自分の家も売り、貧しい教会員たちには何くれとなくお小遣いも渡したりしました。

ところが、その方には3人の息子がいたのですが、とても質素な生活をしたので、3人ともそれが恨みでした。
自分たちは決して教会員にはならないと心の中で誓って大人になりました。

しかしそれでも、父母の功労のゆえか、次男が神様に導かれるようにして祝福を受けたのです。

その方はとても優しい、紳士的なタイプでした。
ところが、祝福で出会った女性は対照的なタイプで、生活力が旺盛、いかつい男性のようなタイプでした。

2人の間には4人の子女が生まれたのですが、2番めの子女(長男)が生まれて間もなく、夫は夫婦の生活に耐え切れず、突然家を出て行ってしまったのです。

母子家庭になり、婦人は突然、女手ひとつで4人の子女を育てる責任を背負いました。
市場で物売りもし、力仕事もしました。

朝から晩まで働かざるを得ず、子どもたちは母親とゆっくり過ごす時間もなく、寂しい子ども時代を過ごしました。
特に、生まれたばかりだった長男は、父親の愛もなく、母親の愛も受けずに育ち、人に心を開けない人間になりました。

顔には喜怒哀楽の表情が乏しく、自閉症の手前のような精神状態です。

それでも、祖父母は教会の功労者。
周囲の人たちが心配して、祝福の準備をしてくれました。
そして、祝福を受けたその相手が、日本の祝福二世でした。

彼女は明るい性格で、人に対して壁を作らないタイプ。
敬遠されがちな人とでも、あまり抵抗なくつき合える穏やかな女性です。

ところが、その女性にして、心を閉ざした夫と愛し合うのは並大抵のことではありませんでした。

どんなに心を尽くして世話をしても、「ありがとう」という一言の感謝もない。
つわりで苦しんでいても、体をさする配慮は微塵もなく、背を向けてテレビを見ているばかり。

妻はさすがに耐え切れなくなり、日本の母に相談します。

母は、教会生活で培った経験をもって彼に会い、じっくりと話を聞いてみます。
韓国語はよく分かりませんから、娘を通訳に立てての対話です。

「ぼくは、父親の愛を知らず、母親からも手をかけられずに育ちました。愛されなかったぼくには、人を愛することができません」
と彼。

彼の立場を受け入れながら、母親はじっくりと話を聴き続けます。
彼の態度はほとんど変わらない。
それでも、根気強く、何度も訪ねては、彼の話に耳を傾ける。

そんなことが何年も続きました。

その間、2度も流産をしました。
娘も大変だったでしょう。
彼の変化は相変わらず牛歩でした。

ところが、ある時参加した修練会で、文先生が来られ、祖父母が功労者だということで部屋に呼ばれて、家族のことを尋ねられたことがあります。

そして、
「お前は祝福を受けたのか? 誰と祝福を受けたのか?」
と文先生に聞かれ、
「◯◯家の娘さんと祝福を受けました」
と答えると、文先生は、
「お前は良い人と祝福を受けた」
と言われたのです。

その修練会から帰ってきた時、彼は見違えるように変わっていました。
それまで祈りなど全くできなかった彼が、帰ってきてからは涙を流しながら祈るようになったのです。

もっとも、日常の生活態度はそう簡単に変わりません。
妻にとっては、期待を持ちながらも、忍耐の日々が続きました。

しかし、10年目に待望の子女が誕生したのです。
夫は父親になり、子女を通して心の変化は加速され始めています。

☆☆☆

この証には後日談もありますが、ここまでの物語にも、一言では言えない復帰摂理の深い意味がいくつも潜んでいるような気がします。

そもそも、なぜあれほどの功労者の息子が難しい祝福を受け、妻子をおいて家を出るなどという事態になるのか。
その御蔭で子どもはまともな父母の愛を受けられず、祝福を受けたとしても妻も子どももまともには愛せない。

そこに嫁いだのが、日本の二世。
その父母は、文先生から直接にマッチングを受けて結婚し、教会の発展にも貢献した模範的な祝福家庭です。
夫婦としての生活だけ見れば、父母よりもその子女である二世のほうがもっと苦労の道を与えられたように見えます。

かつて天に大きく貢献した方の子孫が苦労し、その苦しみを解決してあげるために清い二世が嫁いでいく。
しかも、娘だけでは荷が重すぎるので、母親が力を尽くして協助する。

このようなことは、ただ単なる偶然の因縁ではないように思います。

功労と不遇。
それは、私たちの目には現象として現れたものしか見えません。
しかし、功労の背後にはもっと大きな罪があるかも知れず、不遇の背後にはもっと大きな神様の祝福があるも知れない。

助けているように見える人が、本当には助けているのではなく、助けさせていただいているのかも知れません。
助けることによって、隠れた罪を清算しているかも知れません。

私たちはお互いに深くつながっているように思います。

それぞれが、いろいろな凸凹を持っている。
凸を持っている人は、別の人の凹を埋めてあげる。
しかし、凸の人も、何か別の凹を持っているかもしれないので、それはまた別人の凸で埋めてもらわなければなりません。

特に祝福家庭は、お互いの子女同士が結婚することを通して、お互いが持っている凸凹を埋め合わせ合って、みんなが早く平らになるように仕組まれているのかも知れません。

そして、我々が目を上げて仰ぎ見てみると、真の父母という方が巨大な凸を持っておられ、それによって我々すべての凹を埋め尽くす最終的責任を背負っておられるのではないか。

真のお母様(韓鶴子総裁)が、
私自身がこれに責任をもつ!
と誓って真の父母の道を歩んでこられたという証しの中にも、そのことが感じられます。

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Admin:kitasendo