みんなが仏の子に見える
その日の暮れ、アパートの駐車場に車を置きながら、私は不思議な光景を見ていました。
世の中がとても明るいのです。
スーパーへ来る買い物客が輝いて見え る。走り回る子どもたちが輝いて見える。
犬が、垂れ始めた稲穂が、電柱が、小石までが輝いて見えるのです。
アパートへ戻ってみた妻もまた、手を合わせたい ほどに尊く見えました。
この本は不治の病に冒され、次女の誕生を見ることができずに逝った若き青年医師の遺稿集です。
今から22年前、100万部を越すベストセラーとなりました。
冒頭の引用記事は、井村さんが肉腫のため右足を切断して後、両肺へ転移したことを知った直後の心境を綴った部分です。
目にするものがすべて輝いて見え、世の中全体が明るく見えるというのは、決して異常な精神状態での幻想ではなかろうと思います。
私の高校時代、1年の夏まで担任だった数学の先生が、夏休みの間に病気で亡くなりました。
亡くなる少し前、病院へお見舞いに行くと、
「みんなが仏の子に見える」
と言って、手を合わせられました。
非常に痛みを伴う最後の段階でも、いつか痛みを感じなくなったとも言っておられました。
数学者、岡潔先生を彷彿とさせるような細身の先生で、一風変わった、愛嬌のある変人とでも言えるような方でした。
我々生徒の間では、なかなか人気のあった先生です。
普段から読書好きで、病院のベッドの横には仏教関連の本が何冊も並んでいました。
先生の訃報を聞いて、最後の言葉を改めて思い出しました。
「みんなが仏の子に見える」
というのは、一体どういう感覚なのだろう?
その言葉を疑いはしないけれど、実感的にはよく分からない謎の言葉でした。
それからだいぶたって、井村さんの本を読み、全く同じことが書いてあったので、驚きました。
長年連れ添った妻が尊く見えて、手を合わせたくなる。
これはかなり次元の高い意識状態です。
統一原理では、特に夫婦の関係において、お互いは神様の実体だと教えています。
男性は、神様の陽性を代表する実体であり、女性は、神様の陰性を代表する実体だと言います。
ですから、お互いは相手を神様のように敬って対するべきだと言うのです。
しかし実際には、日常生活の中でそのように感じるのは容易ではありません。
ついつい、人間的な目で、相手を平面的に見てしまいます。
私たちはふだん、あらゆるものを本来の姿で見ているのか? という疑問がわきます。
本当は電柱も小石も、いつも輝いているのかも知れません。
私たちの目には、その本来の輝きが見えていないのです。
「今日が私の地上での最後の日かも知れない」
という切羽詰った心境。あるいは、
「あれやこれや、雑多なものはすべてどうでも良い。そんなものはあの世に持って行けない」
という執着が消えた心境。さらには、
「妻の愛と子ども愛、それさえあれば、私は他に何もいらない」
という透き通った心境。
そういう心境の境地でこそ、やっと本来の目が開かれることがあるようです。
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