イエス様の絶望と復活
- 2013/07/26
- 23:29
「重生論」の講義から受けたインスピレーションによって、イエス様と聖霊による霊的重生について、少し書いてみます。
新約聖書に4つの福音書があり、それらを照合すると、イエス様が十字架に掛けられた時、7つの言葉を発せられたことが分かります。
その一つが、
「我が神、我が神、なぜ私を見捨てられたのですか?」
という悲痛な叫びです。
イエス様はそれまでの人生で一貫して神様の愛を感じながら生きてこられました。
どんなに辛い時にも、神様がともにおられるという実感があったので、絶望はなかったのです。
ところが、イエス様にとって最も深刻な、この十字架の時に及んで、イエス様には神様の愛が突然、全く感じられなくなったのです。
イエス様は当然、死の道を覚悟しておられましたし、その果てに霊的な救いの道を開こうと願っておられました。
ところが、その峠を越えようとするまさにその時に、神様の愛が感じられなくなったのです。
「このままで、神様の愛がなくて、どのようにして人類を導いて行けるのか?」
という、あまりにも深刻な戸惑いに襲われました。
その戸惑いから発せられたのが、あの一言だったのです。
もし、イエス様の地上人生がこの一言で終わったとすれば、イエス様は亡くなった後も、霊的救いの道を開くことができなかったでしょう。
しかし、イエス様はその言葉の後に、もう一つ最後の言葉を残されました。
ルカ福音書だけが、それを伝えています。
「父よ、私の霊をあなたにゆだねます」
この最後の一言によって、サタンはイエス様の霊人体に手を付けることができなくなり、神様はイエス様をメシヤであると認めることができたのです。
その点を、文先生は次のように語っておられます。
宗教の本質は、感謝することです。それで、サタンを防御するための一番重要で緊急な要件を挙げなさいといえば、『感謝することだ』というのです。その次に、満足することです。イエス様は、この2つの問題で無難に合格したので、神様はイエス様にメシアの名称を与えざるを得なかったのです。 |
原理講論には、
「サタンは、自己の最大の実権を行使して、イエスを十字架で殺害することによって、彼が四〇〇〇年の歴史路程を通じて、その目的としてきたところのものを、達成したことになったのである。・・・ サタンが、既にその最大の実権を行使してイエスを殺害したので、蕩減復帰の原則により、神にも最大の実権を行使し得る条件が成立したのである」
とあります。
しかし実際には、サタンがその最大実権行使をしてイエス様を殺害したがゆえに、その代わりに、神様がご自身の最大実権行使できたという単純な話ではありませんでした。
この2つの実権行使の間には、イエス様の絶対信仰があったのです。
サタンは、イスラエル民族の不信を条件として、その最大実権行使をしました。
それに対して、神様はイエス様の絶対信仰を条件として、その最大実権行使をなさることができたのです。
十字架から3日間、イエス様は神様の愛から切り離され、地獄に赴かれました。
サタンの主管圏に3日間留まった後、絶対信仰によって再び神様の愛の主管圏に戻られました。
そのようにして、イエス様は復活されたのです。
ここからキリスト教が始まり、イエス様は聖霊を復帰されることによって、霊的救いの道が開かれるようになったのです。
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