私の内に神の御霊が宿っている
あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。 (コリント前書3:16) |
わざわざ韓国から専門の教授を招聘して「コーチング」研修会が開かれるというので、片道4時間かけて参加して来ました。
参加してみると、コーチングについての具体的なスキルはあまり実践されなかったのですが、期待とは違う面で大いに得るものがありました。
研修の内容はコーチングだけでなく、いわゆる「ホームグループ」あるいは「セル教会」などと呼ばれる小さな教会、スピーディーに成長する教会組織に関するものもあったのですが、かなりの時間が、それに取り組む我々の内面の整備、浄化というテーマに割かれました。
これが私にとっては、かなり覚醒的なものだったのです。
そのポイントが、冒頭に引用した聖句に集約されるように思います。
研修は参加者同士のハグ(hug)から始まりました。
私のハグの相手は、隣の男性。
やや照れはありましたが、初めてのことでもありません。
ところが、それが終わって、教授から思いがけない質問が発せられたのです。
「皆さん、なぜ今日ここに来たんですか? ハグをしながら、何を感じましたか?」
え?
私は今日、何をしに、何を求めてここに来たのだろう?
コーチングに関心があった。
コーチングのスキルを身につければ、教会での牧会にも役立つだろうと思って・・・
いや、しかし。
それが今日ここに来た目的であっていいのだろうか?
スキルを身につけたとして、私はどう変わるのだろう?
どう変わりたいと思っているのだろう?
「私が見ていると、皆さんは単なる挨拶としてハグをしていたように見えました。ハグをしながら、相手から何を感じたか。それがないと、ハグはただの挨拶になります」
その通りです。
私のハグは、挨拶でした。
普段よりはやや大袈裟な挨拶。
「相手の中に、天の父母様が臨在される。その天の父母様をハグするような気持ちでハグした方はおられませんか?」
そんな考え方があったのか!
確かに、「あなたは神の聖殿だ」と聖書は言っています。
その通りなら、相手も神の聖殿だし、私も神の聖殿のはずだ。
聖殿と聖殿が抱き合うハグ。
教授が狙っていたのは、知性を中心とした通り一遍の研修ではなかったようです。
途中からそのことに気がつきました。
ハグ一つでも、恐ろしい力を持っています。
お母さんが愛情のこもったハグをすると、一度息を引き取った赤ん坊が蘇生をします。
そういう力は、知性では感じることができず、感性で感じ取るものです。
研修に参加する前から薄々予想はしていたのですが、やはり私の最も苦手なテーマが突きつけられました。
「食口は、自分をなくすことができなかったのです。自分の気持で考え、天の父母様の気持ちを考えなかったのです」
「私はあの人が嫌だ」
と思う時、それは私の気持ちなのか、それとも天の父母様の気持ちなのか。
天の父母様には、嫌な人、憎い人がいるのだろうか?
一人もいないだろう。
「ですから、あなたの中の天の父母様と授受して下さい。対話をして下さい」
と、教授。
今、この研修会は、スキルを身につける研修会ではない。
自分を考える研修会だ。
「なぜ私は、これまで良く変化できなかったのか? 変化しつつある自分を感じるのか?」
イエス様は、
「第一の律法は、心を尽くして神様を愛すること。第二の律法は、自分を愛するように隣人を愛すること」
と教えられました。
神様を愛するとは、私の中に住んでおられる神様をこよなく大切にすることではないか。
自分の気持で考え、行動するのではなく、私の中の神様の気持ちで考え、行動する。
それは自分をなくすことであり、神様を愛することである。
そのようにする人であってこそ、隣人の中に住まわれる神様を感じてその人をハグすることができる。
それが隣人を愛することだ。
ところが、私は今までそのように神様を愛し、隣人を愛せてきたのだろうか?
私の内に神の御霊が宿っている。
この発見は、実に驚くべき、恐ろしいほどの発見だということに、初めて気づきました。
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