み言葉だけで働くな
み言に無条件に従っていく人になってはいけません。まず、み言を通して主体性を備えた実体、すなわちみ言の主体となって、創造することができる人格を備えなければなりません。 ところが、今まで統一教会で原理のみ言を勉強する人々を見ると、心情的基準や人格的基準を見出すことができず、み言だけで働き、動く人々がたくさんいるのです。これではいけません。み言を学べば、そのみ言を自分のみ言として語ることができなければなりません。 原理を語る時、その原理がどこかの師が教えてくれた原理としてではなく、自分の骨と肉を通して生命を得た立場で語らなければなりません。そのような本然の主体性を持ってみ言を語ることができる人にならなければ、そのみ言で関係を結んだ人々が、自分とは何の関係もありません。 (『基元節記念版 天聖経 第二篇第三節「真の父母の勝利圏相続」』) |
本日午前10時半から清心平和ワールドセンターで「Vision 2020 勝利のための連合礼拝」が行われたので、教会ではインターネット中継を通して参加しました。
その礼拝が始まるまでに全体が訓読してほしいとの指示が流れ、基元節記念版の天聖経の一部が指定されました。
冒頭に挙げたのは、その最後の部分です。
Vision2020 を達成するには「真の父母の勝利圏」を相続するということが鍵なのでしょう。
私も礼拝前に3回訓読してみましたが、その深い御心はそれでも十分には分かりません。
私の関心がどうしても「原理」に向くので、最後の部分が目に止まったのです。
原理に関わる観点からすれば、真の父母の勝利圏を相続するのに、いくつかの示唆が読み取れます。
① み言に無条件に従って行くのではなく、み言の主体となれ。
② 学んだみ言を自分のみ言として語れる者となれ。
③ み言をそのように語れなければ、み言で関係を結んだ人と自分とは何の関係もない。
「自分のみ言」というのは、「自分の考え」という意味ではあり得ません。
文先生は別の所で、原理講師に向かって、
「原理講義をする時、自分の言葉を交ぜるな」
と言っておられます。
ですから、「自分のみ言として語れ」というのは、
「み言が自分の人格や心情として実った者となって語れ」
ということでしょう。
「私はそのように、み言を自分のみ言として語ってきただろうか?」
と自問してみると、忸怩たる思いが湧いてきます。
もしそのように語れなかったとすれば、これまで講義をしてきた多くの人たちと私とは何の関係もないということになります。
単なる「み言の伝達者」に過ぎず、いずれ時が経てば、その人の記憶から消え去る運命だということでしょう。
「み言だけで働くな!」
というのは、極めて貴重な教示です。
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