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元教育部長の講義日記

家庭連合の教育部長を辞しても思索する日々

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復活の愛「悲しみのあまり死ぬほどである」

easter2013 

復活祭。

グレゴリオ暦を用いる西方教会では、今日3月31日。
ユリウス暦を用いる東方教会では、5月5日。

天暦ではどうなるのか分かりませんが、統一教会にいるとこの祝日をあまり意識することがありません。
しかし、この日は独りキリスト教にとってだけでなく、人類全体にとって決して忘れることのできない、神様の復帰摂理上において画期的な日であることは間違いないでしょう。

キリスト教の基礎は、イエス様の十字架による死ではなく、その死からの復活にありました。
十字架の死はサタンの勝利であり、復活こそが神様の勝利であったのです。

サタンは4000年の神様の復帰摂理を破壊するために、何としてもイエス様を十字架で殺害しようと画策しました。
その目論見通り、洗礼ヨハネはその責任を果たせず、準備されたはずのイスラエル民族はイエス様を不信し、イスカリオテのユダは裏切り、立てられた弟子たちは最後にイエス様を見放して遁走したのです。

このような状況を見られた神様は、人類の救済が危ぶまれると憂慮されました。
このままでは、千辛万苦して神様が愛する独り子を送られたその目的が、まったく水泡に帰する恐れがありました。

そこで、神様は摂理の方向を転換されたのです。
それが、変貌山でのモーセ、エリヤ、イエス様の会談での結論でした。
神様は第二次の手段として、イエス様を愛の怨讐であるサタンの手に引き渡してでも、堕落した人類をご自身の側に連れ戻そうと決意されたのです。
神様にとって、死ぬほどの決意でしょう。

しかし、それでも神様には深い懸念がありました。
この第二次の道を独り息子がどのように進んでくれるか。
その最後の責任はイエス様に委ねるしかありませんでした。

イエス様は第二次の道を、迷わず、真っ直ぐに進んで行かれました。
それは、神様から捨てられる道です。
捨てられても、不動の心を持ち、神様を一切恨まず、悪逆無道な人類を一切憎まず、すべてを飲み込んで従容として行かなければならない道でした。

しかし、イエス様にあまりにも深い苦悩と葛藤があったことは、十字架の直前のゲッセマネの園での祈りから察することができます。

イエスは彼らと一緒に、ゲッセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、
「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」

そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた
そのとき、彼らに言われた、
わたしは悲しみのあまり死ぬほどである
(マタイによる福音書26章36節~38節)

なぜイエス様は、神様から捨てられてでも、十字架の道を行くことができたのでしょうか。
イエス様がどれほど神様を愛しておられたか、計り知ることができません。
また、神様がどれほど堕落した子女(私)を愛しておられたか、計り知ることができません。

サタンはその最大の実権を行使して、イエス様を十字架に掛けて殺しました。
ところが驚くべきことに、神様はご自身の実権を最大限に行使され、死んだイエス様を勝利的に復活させられたのです。

これによって、人類の霊的救いの道が開かれました。
その土台の上に、将来のいつかに再臨も可能となったのです。

それを考えると、我々は一人の例外もなく、イエス様の恩恵を受けているという事実を否定できないでしょう。
私が再臨主に出会うようになったその背後には、あまりにも深い愛で十字架の道を従容と行かれたイエス様がおられる。

復活祭の日、そのことを改めて深く瞑想しようと思います。

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