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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

実体的三位一体の時代

2013/03/17
原理講義 7
trinity 

原理講論の「キリスト論」の中に、キリスト教で言う「三位一体」に関する原理的な解釈が載っています。

「神の創造目的を達成するためには、イエスと聖霊は神を中心とする四位基台を造らなければならない。このとき、イエスと聖霊は神を中心として一体となるのであるが、これがすなわち三位一体である」

二千年間、この三位一体はあくまでも霊的な次元にとどまっていたのですが、基元節を迎えて今やそれが実体的になったと思われます。
この、三者が一体となるとはどういうことなのか。
それを、神明忠明先生(元UTS総長)の解説を参考にしながら、考えてみようと思います。

☆☆☆

天地人真の父母」という呼称があります。
これは単なる「真の父母」とは違います。
無形の本体であられる神様(夜の神様)と実体の真の父母様(昼の神様)とが完全一体化した基盤の上に、その三者を総称して言う呼称です。
すなわち、これが「実体的三位一体」なのです。

基元節を超えた今、私たちが神様に接しようとすると、神様そのものに接することはできず、実体的三位一体に接するようになります。
つまり、神様に接しようとすると、そこには必ず真の父母様がおられ、真のお父様に接しようとすると、そこには必ず神様と真のお母様がおられ、真のお母様に接しようとすると、そこには必ず神様と真のお父様がおられるということです。

文先生が聖和された後、韓鶴子総裁が、
「私がいうことはお父様のいわれることであり、お父様のいわれることは私のいうことである」
と言われるのも、上のような理由によります。

従来のキリスト教神学では、三位一体にも「内在的三位一体」と「経綸的三位一体」の2種類があります。

内在的三位一体とは、文字通り、神様の中に内在する三位一体です。
ところが、その神様はその外部(被造世界)に対しても働きかけなければなりませんから、それを経綸的三位一体と呼ぶのです。
その時、神は「創造」、子なるキリストは「贖罪」、聖霊は「聖化」の業をされると考えます。

ただし、ここに一つの問題があります。
内在的三位一体には本体があるのですが、経綸的三位一体には実体がないのです。
内在的三位一体が経綸的三位一体の役割まで兼ねて行うと考えるので、後者の実体は不要なのです。

ところが、これでは神様と被造世界との間に授受作用の関係が成立しなくなるという、神学的に深刻な問題が生じます。

これに対して統一原理では、 「内在的三位一体」 の本体と 「経綸的三位一体」 の実体の両方を重んじて考えます。
「内在的三位一体」 の本体とは三数的存在としての神様の中の心情、本性相的男性、本形状的女性の三つを指し、「経綸的三位一体」 とは神様を中心とした真のご父母様という実体的三位一体、即ち 「天地人真のご父母様」 を指すのです。
つまり、冒頭に引用したみ言葉は、キリスト教で言う「経綸的三位一体」のことを説明していたと見ることができます。

このように、基元節において 「天地人真のご父母様」が完全に立たれたからこそ、韓総裁が、
「これからは神様を『天のお父様』と呼ばず、『天の父母様』と呼ぶようにしなさい」
と指示されたのだろうと、私は考えています。

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Comments 7

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gildong

教えてください

>無形の本体であられる神様(夜の神様)と実体の真の父母様(昼の神様)とが完全一体化した基盤の上に、その三者を総称して言う呼称です・・・

基元節前の統一教の見解(呉澤龍氏)では、夜の神様が文先生で、昼の神様が韓総裁であると言っていたように記憶していますが、
上の説明(神明忠明氏)では、神様が夜の神様で、真の父母が昼の神様となっており、完全に異なる見解になっています。

二つの異なる見解がどうして存在するのでしょうか?
このような場合、通常、先の見解が間違いだったと認定したことになりますが、如何でしょうか?
基元節を過ぎて神様が変質したということでしょうか?

2013/03/18 (Mon) 21:47

教育部長

Re: 教えてください

gildongさんへ。コメントと質問をいただき、ありがとうございます。
だいたい同じ内容を個人メールでもお送りしましたが、コメント欄でも記しておこうと思います。

ご指摘をいただいた後、呉澤龍教授の「昼の神様、夜の神様」に触れた論文を探してみましたが、手元には見当たらず、知人に尋ねても持っている人がいないので、ご返事が遅れました。私自身、呉教授の著作を読んだような気もしますが、曖昧ですので、ご質問の件については明言ができません。
正直なところ、これに関するみ言葉は難解であり、いまだ人によって微妙に解釈が異なっているのが現状のような気がします。
例えば、文亨進様はこんなふうです。
「夜の神様は超越的な神様として全ての万物と時空間が創造される前の無の状態、夜の暗い状態での見えない神様であり、有の状態、時空間の創造後歴史が始まった後の動きの神様、摂理の神様といえる存在が即ち昼の神様です」(2012.1.29)
それに対して、
「我々が、今まで神様と言ってきた概念は夜の神様のことであり、昼の神様とは、地上に人間の体を借りて現れた完成されたアダムとエバを含めていう神様の概念です」
というように解釈する人もいます。
どれが正しく、どれが間違っているということは、今の私には即断できません。表現上では違っているように見えても、意味としては通じている点があるようにも思えます。
今の時点では、大体次のように考えています。

「夜の神様とは、創造を始められる前の無形の本体、縦的(超時空間)であり性相的(男性的)な神様。それに対して昼の神様とは、創造を始められた後の神様であり、ご自身は無形ではあるが、ご自身のかたちを写した実体(特に人間)までも一体として含む神様。ゆえに横的(時空間)であり形状的(女性的)な神様とも言える。真の父母は神の実体としての代表的存在として、その方を「昼の神様」と表現しても、まったく的外れではないと思う」

それで、神明先生の「実体の真の父母(昼の神様)」という表現をそのまま紹介しました。先生にはもっと深いご理解があるのかも知れませんので、これは飽くまでも私の理解した範囲です。

このような見方がどれだけ正鵠を射ているのか、私にも分かりませんが、今後、色々な方の知見や議論を通して、より深く正しく理解できるようになることを願っています。

呉教授の説明がお手元にあれば、正確なところを教えていただきたく思います。

2013/03/19 (Tue) 21:44

クリエイト

その解釈は可笑しいです

>「夜の神様とは、創造を始められる前の無形の本体、縦的(超時空間)であり性相的(男性的)な神様。それに対して昼の神様とは、創造を始められた後の神様であり、ご自身は無形ではあるが、ご自身のかたちを写した実体(特に人間)までも一体として含む神様。ゆえに横的(時空間)であり形状的(女性的)な神様とも言える。真の父母は神の実体としての代表的存在として、その方を「昼の神様」と表現しても、まったく的外れではないと思う」

 失礼な言い方かも知れませんが、余りにも原理講論を無視し過ぎてはいないでしょうか。
原理講論には「被造世界が創造される前には、神は性相的な男性格主体としてのみおられたので、形状的な女性格対象として、被造世界を創造せざるを得なかったのである。」と書かれています。
 つまり、神が性相的な男性格主体というのは 被造世界と対照した神の形容であって、たとえ被造物を創造される以前であっても 本性相と本形状を属性として既に持っているのです。
従って「性相的(男性的)な神様」「形状的(女性的)な神様」という発想ができること自体が異常です。 
 何故 被造物、人間を「形状的(女性的)な神様」と言うことができるのでしょうか。
もし被造物も「形状的な神様」と呼ぶような神様という言葉の使い方が許されるのであれば、全ての存在物は神様であることになり、創造主、第一原因としての神とその神によって創造された被造世界、人間という概念自体が成り立たなくなってしまいます。
 原理講論では被造物、人間を「神の実体」などとは表現しておらず、神の実体対象というように書いてあります。
この意味の違いぐらいは理解してもらわなければ困るのですが、実体対象とは あくまでも本体から分立された対象という意味で 神という概念から切り離されたものであるのは明らかです。
 従って、原理講論を真面目に読んでいれば「真の父母は神の実体としての代表的存在として‥‥」などと言う可笑しな文言を書けるはずがありません。
完成した人間は神の実体対象として神性を帯びるようになるが、神御自身ではないというのは原理の基本中の基本であり、それを理解できなかったところから過去のキリスト教は間違った信仰を持ってしまったというのも、原理講論の常識です。
 しかしながら、教育部長さんが原理講論の内容が間違いであると思っているのなら話が変わってきます。
もし、原理講論と違った原理を信じておられるのなら、それを明確にすべきではないでしょうか。
そうでなければ、上記のような 明らかに間違った原理解釈は統一原理を勉強中の信徒に混乱を呼び起こします。

2013/03/20 (Wed) 03:47

教育部長

Re: その解釈は可笑しいです

クリエイト様。懇切なご指摘、ありがとうございます。
ご指摘を拝読しながら、私の原理理解も不十分であり、説明も舌足らずなところがあったように感じました。今後、もう少し整理する必要があると思います。現時点で、少しだけ補足してみることにします。

「神の実体」という表現は、ご指摘のように、やはり「神の実体対象」としたほうが、より適切だと思います。しかし同時に、イエス様が「私を見たものは神を見たのである」と言われたように、「神の実体」と表現したほうがより実感的である場合もあるように思います。
ただ、私も完成した人間が神ご自身であると考えるものではありません。キリスト論にある通り、「体は心に似た実体対象として、心と一体をなしているので第二の心とは言えるが、心それ自体ではない」ということを理解しているつもりです。

その上で、原理講論には明確に記述されていない内容が、お父様の説教のみ言葉にいろいろあることも確かだと思います。例えば「神様は成長される」とか「神は完成した人間を(服を着るように)まとう」などです。このようなことと本体論の学びを通して、神様にとって自らの「実体対象」がどれほど切実に必要だったかを考えるようになりました。ある意味で、実体対象がなければ、神様が単独で存在されたとしても存在の意味がないようにさえ思われるのです。

ご指摘のように、「神様は性相的な男性格主体としてのみおられたので、形状的な女性格対象として、被造世界を創造せざるを得なかった」と原理講論にあります。なぜ「せざるを得なかった」のでしょうか。それは、男性格と女性格とが一体となって喜びを感じたいという抑えがたい「心情」のゆえだと思います。神様は、ある意味で、自分以上に実体対象がほしかった、それがなければ神様ご自身が完成しない。それほど切実に実体対象が必要であったので、時空間の中で実体を創造することが神様の本質と切っても切り離せない行為であったと思います。

そういうところから、実体の世界と関わる「昼の神様」というみ言葉が出てきたのではないかと、私なりに考えています。ただし、私も明瞭に分かっているのではありません。今後とも、討論の議題として扱われ、より深い理解に至ることを願っています。

2013/03/20 (Wed) 11:01

gildong

私も原理から外れるべきではないと思います

>神様は、ある意味で、自分以上に実体対象がほしかった・・・

これはその通りだと思います。愛なる神様は必然的に愛の対象を必要とするでしょう。

しかし、それは愛を実感すること、愛と美の顕現であって、成長とは異なると思います。神様は、創造のみ業が完結していない現在であっても、唯一不変永遠絶対であり完全であって、人間創造の結果として三位神に変質することはないと思います。
当然、文先生にもイエス様にも人間としての責任分担があった筈です。

さらに、

>男性格と女性格とが一体となって喜びを感じたい・・・

この点には違和感を感じざるを得ません。

神と人間は親子の関係だった筈です。

あまり突き詰めると気持ち悪い話になるので、止めておきますが、
神様の縦的な愛が人間において横的に展開するのであって、神様が横的になることはないと思います。

神様の結婚式とはご自身の本陽性・本陰性の実体対象である神様の息子・娘の結婚式であって、神様が婿になるわけではないと思います。

2013/03/21 (Thu) 15:10

教育部長

Re: 私も原理から外れるべきではないと思います

神様が成長されるというのは、他でもない、愛が成長するということだと、私は捉えています。
その愛の中には、子女の愛もあり、兄弟の愛もあり、そして夫婦の愛、父母の愛もあります。特に、男女の愛である夫婦の愛は、神様にとっても極めて重要だと思っています。

2013/03/23 (Sat) 09:01

コスタ

原理

 問答を読ませていただきました。私はそれぞれの原理の解約が違うところから正してから議論れることを願います。同じ原理について議論されても良い結果はみられないように思います。

2013/03/29 (Fri) 10:13