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元教育部長の講義日記

家庭連合の教育部長を辞しても思索する日々

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神は審判を予定し得ない

2012

原理講座を継続して開いています。
本日の講義箇所は、「予定論」と「キリスト論」でした。

予定論の中には、
「神は、このみ旨を善として予定して達成される。なぜならば、神は善の主体であるので、創造目的も善であり、復帰摂理の目的も善で、その目的を成就する『み旨』もまた善でなければならないからである。故に、神は人間の堕落とか、堕落人間に対する審判とか、宇宙の滅亡などを予定なさることはできないのである」
とあります。

昨日の記事に書いた通り、み言葉を学んだら、その後に討論をせよと、文先生が指導しておられます。
これまでも講義の後には質疑応答をすることがありましたが、今日も「何か質問、疑問、意見などはありますか?」と促したところ、1人の婦人が手を上げました。

「原理では、神様は審判を予定されないと言われましたが、ノアの時の洪水は審判ではありませんか?」

確かにそうですね。
「洪水審判」とよく表現します。
私もこの問題で考え込んだことがあります。

私がすぐに答えては面白くないので、少し黙っていると、別の婦人が手を上げて自説を述べてくれました。
その論旨は、
「神様も成長されるというのだから、ノアの時には已むに已まれぬ気持ちもあったのではないか」
というようなものです。

「なるほどね。面白い観点ですね」
と答えました。

何が唯一正しい答えなのか。
それがあったとしても、貴重なのはそこに至るまでの試行錯誤の過程を通して、
「私はどういう神観を持つか」
ということだと思います。

予定論をめぐっては、賛否両論があり、それぞれを支持するようみ見える聖句がある。
これはどういうことかと考えると、一見相反するような聖句があることが問題の原因ではなく、その聖句を解釈する人の「神観」の問題なのです。

パウロのロマ書などの聖句を根拠に「二重予定説」を唱える人は、その人が「二重予定」をするような神様の観念を持っているのです。
それに対して「万民救済説」を唱える原理は、「万民を救おうとなさる神様」という理解に立っているのです。

これは例えて言えば、同じ天体を見ていても、ある人は「太陽や月や星が地球の周りを回っている」と考え、別の人は反対に「地球が太陽の周りを回っている」と考えるのと似ています。
見ているもの(現象)は同じなのに、見ている人の観念(世界観)が違うのです。

二重予定説の観点から見れば、ノアの洪水は不信仰者を地獄に落とす「審判」に見えるかも知れませんが、神様は絶対善であるとする原理の観点から見れば、決して「審判」ではないはずです。

もう1人別の婦人は、
「基元節を過ぎて、職場で今までよりももっと辛い立場に立つようになった」
と証しをしたのですが、そういう日常生活のあらゆる面において、
「私が信じる神様はどういう方なのか」
という神観が非常に重要になるのだと感じます。

悪なることまでも予定しておきながら、それをまた審判する神様なのか。
絶対善であり、善のみを予定し、決して悪を審判なさらない神様なのか。

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