その責任は私にあります

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原理講論が人の立場から書かれているとすれば、「文鮮明先生のみ言に学ぶ統一原理」は天の立場から語られているという感じがします。
非常に深くて豊かな天啓に満ちています。

イスラエル民族は荒野でモーセを信じることができず、不平不満を言い続けました。
モーセは言い表せない悲しみに満ちていました。
しかし、それ以上に悲しみ、始終気をもんでおられたのが神様です。

モーセは神様のみ旨を知っていたのではありません。
ただ導かれるままに神様について行ったのです。
そういうモーセが寝入っている瞬間でも、神様は気をもみながらモーセと民族を見つめたのです。

それでも、モーセには偉いところがありました。
イスラエル民族と自分が一つになれない事実に直面する時、彼は不信する民族を叱責する前に、自分自身の不足を天の前に訴えたのです。

彼はシナイ山に登り、40日間断食をしながら、
「お父様、この民族がどうして許諾された地を目の前にしながら入っていくことができないのですか。その責任は誰にあるのですか。その責任は私にあります
と訴え、精誠を尽くしたのです。

不信だらけと思われるイスラエル民族にも偉いところがありました。
とにかく彼らは40年間、荒野で忍耐したのです。
モーセが行こうといえば行きました。

今もし全世界に広がっているキリスト教徒たちを神様の命令によって荒野に引っ張りだして、
「4年だけここで暮らしなさい」
と言えば、その指導者をむしり取って粉にしてしまうだろうと、文先生は言っておられます。
統一信徒も例外であり得るでしょうか。

食料がなくなると不平を言い、エジプトに帰ろうと扇動した者たちがいました。
そういう者は、エジプトにいた時に富裕だった者、人を支配していた者たちであったと、文先生は言われます。
イスラエルは奴隷であったと言いますが、そういう現実もあったのでしょう。
昔の習慣や生活が意識に及ぼす力は恐ろしいものです。

最後にモーセは、カナンを目の前に見つめながら荒野で息を引き取りました。
失敗したからです。
彼は石板を破壊し盤石を二度打ったのです。
そして、イスラエル民族は偶像を作って崇拝しました。

モーセが石板を壊し、盤石を二打したのは、いずれも民族の不信に血気を抑えることができなかったからです。
これを見ると、文先生は最後まで石板を壊さず、盤石を二打されなかった方なのだと思います。
我が身を見れば見るほど、どれだけ忍耐されたのだろうかと思います。

しかしそれゆえに、文先生はモーセをはるかに超えてカナンに入って行かれたのです。
我々は偶像を作って拝まないようにしなければなりません。

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