棍棒が悪いのではない
「基元節聖酒は、我々の過去の一切の過ちを赦す特赦である」
そのように聞いています。
赦される対象は私ですが、赦す主体はどういう心でしょうか。
対象には分かり切れない心を抱えながら赦そうとしておられるのでしょうか。
私は赦されるかもしれないが、私は誰かを赦そうとしているのだろうか。
私もこれまでに赦せない人がおり、赦せないことがある。
それはどうすべきだろうか。
「The Abel-Times」の記事「許しと悔い改めの真の源」を読みながら、今更のように自らを振り返りました。
☆☆☆
1999年4月20日、コロラド州コロンバイン高校で2人の生徒が銃と手製爆弾を校内に持ちこみ、教諭1人と12人の生徒を射殺、28名を負傷させ、犯人はその場で、自殺するという大事件が発生しました。
その時に亡くなった生徒の1人、レイチェル・スコットの父親、ダレル・スコット氏の体験談があります。
彼は自分の愛娘を射殺した生徒を、到底赦すことはできませんでした。
親の心としては、当然です。
しかし彼は、娘のベッドの中に、娘が残したメモを見つけたのです。
そこには、「愛とは何か」という「愛の定義」が記されていました。
それによると、愛する行為の第一が、
「赦す」
ということだったのです。
なぜかしら、レイチェルは死の1ヶ月前にそのメモを書いていたのです。
スコット氏は苦悩しながらも、娘の遺志として「赦す」という(おそらく最も困難な)道を選択しようと決意しました。
もちろん、その後、本当に赦せるまでに、何度も壁にぶち当たりました。
「赦す」ということは、人間的な意志だけでできることではなかったのでしょう。
彼が「赦そう」と身悶えする過程の中に、神様の霊が臨在されるのを感じるようになったとき、「赦し」が自分の中で揺るぎのないものになっていったというのです。
2002年8月、スコット氏は下院司法委員会の公聴会に招かれ、そこでスピーチをしました。
その時、誰もが、
「彼はきっと銃の存在に憎しみをぶつけ、NRA(全米ライフル協会)を非難するだろう」
と思っていたでしょう。
ところが彼のスピーチは、まったくおおよその予想を裏切るものだったのです。
「人類最初の暴力はカインがアべルを殺したことに始まります。悪いのは、カインが使った『棍棒』ではありません。カインが犯人であり、彼の心の中にその罪がありました」
「わが国に、いったい何が起きたというのですか。我々は神を愛することを拒否し、憎しみと暴力の扉を開けてしまったのです。
そしてコロンバインの悲劇が起こったのです。政治家はすぐにNRA(全米ライフル協会)を攻撃します。また個人の自由を制限する法律を作ろうとします。我々にそんな法律は必要ありません」
「コロンバイン高校で、学生たちが捧げた多くの祈りを、無駄にさせないでください。神から与えられた神と交流するする権利を否定するような、神聖なるものを軽視するような法律を持ったままで、新たな千年紀に突入しないでください。
NRA(全米ライフル協会)を攻撃している人たちよ、 私はあなたがたに、心から挑戦をします」
☆☆☆
私たちは、何か良からぬ事件が起き、不幸が襲ってくれば、
「あの人が悪い、あのシステムがおかしい」
と考えがちです。
しかしスコット氏は、
「棍棒が悪いのではない。それを使ったカインの心を直すしかないのだ」
と言ったのです。
どのように直すのでしょうか。
棍棒を振るってしまったカインを「赦す」しかない。
そして、彼のために「祈る」。
それが「基元節聖酒」。
棍棒を振るってしまった我々を「赦し」、「祈って」くださる。
私はどうすべきだろうか。
誰を「赦し」、誰のために「祈る」か。
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