祝福を願うのは誰か?
基元節祝福式が近づく中、祝福を希望する人たちを対象とした講義を始めています。
今日は2回めの講義をしたのですが、自分としては良い講義ができなかったという、やや重たい気持ちが残りました。
何が、どう問題だったのだろうと、あれこれ考えました。
先日、1回めの講義をした時は、実のところ、ほとんど準備をする時間がないままに臨んだのです。
いくつかのポイントだけを頭に入れて、講義を始めました。
言葉は不適切かも知れませんが、ぶっつけ本番のような講義でした。
しかし、それが思いの外良い講義になったのです(というか、そう思えたのです)。
受講者にも深く入るものがありました。
それにしても、あまりに準備不足だったと感じたので、今回は事前に綿密な準備をしました。
本体論の講義テキストを何度も読み返し、祝福のテーマに使えそうなパワーポイントのページを念入りに選び出し、それを再編集しました。
ところが、それを使って実際に講義してみると、どうもうまくいかなかったのです。
なぜだろう?
講義は、下手に準備しないほうがいいのだろうか?
しかし、準備が不要だとは言えないでしょう。
そんなことを言えば、講義はすべて「出たとこ勝負」になってしまいます。
それなら、準備の仕方に問題があるのだろうか?
私が今回準備した時、どこに焦点をおいていたのか。
祝福の希望者に対してする講義は、祝福の意義と価値をはっきり強く伝えなければならない。
そのためには、祝福の夫婦に神様が願う本来の願いを本体論的な観点からきちんと説明しなければならない。
ところが、本体論はある意味、かなり込み入っているのです。
「絶対純潔と絶対貞節」「真の愛の種」「真の生命の体」「神は縦的に成長した真の父」・・・
今日の講義では、このような一つ一つを説明しようとしたのですが、後になって考えてみると、祝福を希望する人たちは、何もこれらをすべて理解してから祝福を受けようと考えているわけではあるまいということに気づきました。
祝福の焦点は、一体何だろう?
人は祝福を受けたいと願うかも知れない。
しかしその前に、祝福を与えたいと願われる神様がおられる。
それなら神様はなぜ、人に祝福を与えたいと願われるのか?
神様に本体論の理論があって、その理論故に祝福を与えたいのではないでしょう。
すべては「心情」から出ているのであって、それは理論ではなく、情的な衝動です。
神様から出てくるその衝動に、人の心がピタッと合ってこそ、祝福を受けたいという衝動が生まれるのではないでしょうか。
そういう意味で、私の講義の焦点は、人の側にありすぎて、神様の衝動的な願いをあまり受け取っていなかった。
人に向かいすぎた、理屈に偏った講義だったように思えます。
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