fc2ブログ
line-height:1.2;

郷愁を食べる

kitasendo
いちじく

私が中学3年まで過ごした昔の家の裏に、大きなイチジクの木があって、季節になると年の近かった叔父叔母と一緒に登ってはもいで食べた思い出があります。

生でそのまま食べることもあり、砂糖をたっぷり入れて茹でて食べることもありました。

その後移った家にはイチジクの木はなく、私も木に登る年でもなくなりましたから、イチジクとの縁は自然と遠のきました。
その頃から35年あまりたった今、私は時々スーパーなどで買って食べてみることがありますが、どうも昔のようなおいしさを感じません。

数学者の藤原正彦氏があるエッセイの中でイチジクの味について触れていて、
「郷愁を食べる」
と表現しておられるのを見て、「なるほど」と感じるものがあります。

氏も少年時代にイチジクやアケビ、カラモモなど野生の果物を食べて育ったので、今でも家族を連れてふるさとに帰ってそれらを見ると、思わずもいで食べてみるのだそうです。
しかしそれを都会育ちの妻や子供に勧めると、誰も口に出して
「まずい」
とは言わないものの、2つ目に手を出す者がいません。
そこで、
「ああ、自分は郷愁を食べているんだな」
と思うというのです。

私にも、この
「郷愁を食べる」
という感じが何となく分かる気がします。

昔私が登ったイチジクの木は日当たりの良くない場所にあったので、イチジクと言えば少し暗く薄ら寒い記憶とつながっています。
ですから私が覚えているイチジクの味には、その記憶というスパイスが振ってある味なのです。
それはスーパーから買ってきたイチジクには感じにくいために、昔のようなおいしさを感じられないのですね。

思えば、食べることに限らず、私たちはさまざまな記憶への郷愁を反芻しながら生きるというのが、偽らざる姿ではないのでしょうか。
人それぞれの心の貯蔵庫には、その人がたどってきた人生の紆余曲折が積み重なって独特の味が徐々に醸成され、他の人には分からない人生の郷愁を作り出す。
それは人と決して共有できない、その人だけの貴重な財産となり、その人の人柄の色を織りなす材料になるのではないかと思うのです。

郷愁を食べるという時、それはできるだけ全体的な感覚で食べたものである必要があります。
同じイチジクでも、スーパーで買ってきたものではなく、木に登って手づからもいで取り、木の上でそのまま皮をむいて食べたりしたものが心の貯蔵庫に収まるのです。
野生の果物はそういう意味でとても貴重な郷愁の材料となるのだと思います。

私の記憶の中でイチジクが少し暗くうすら寒い情景とが分かちがたくつながって、今でも生き生きと蘇るのは、その頃の私が体全体でその場の雰囲気を感じ取っていたからだと思います。

子供時代にはそういう感じ方がほぼ自然にできるものなのに、年をとるにつれて感じ方が局部的になってしまう。
頭で理屈的に考えたり、ただ視覚的にだけ見たりする。
そういう感じ方は深く心にしみ込んで長く記憶に残るということがないように思います。

今や私の子供たちが最も懐かしい郷愁となる体験をしうる年齢です。
同じふるさととは言え、昔とは情景も人の姿も変わった今の暮らしが、彼らの体験の中にどのような記憶として残るだろうかと考えます。

しかし実のところ、そんなことよりもっと気になることは、彼らの父親としての私の姿が彼らにとってどのような郷愁になるだろうか、ということです。
子供に向き合う時に、私もただ頭だけで考えたり、一部の感覚だけで接しないようにしなければいけないと思いますね。



よろしければ1クリック!
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 統一教会へ
にほんブログ村
関連記事
スポンサーサイト



日韓太郎

深いですね~♪
郷愁を食べる筆者の人生が、走馬灯のように甦り、
一緒に筆者の人生を味わい、食べさせて頂いているような、
そんな感覚が残り、日記全体が、
新鮮さと躍動感を感じさせる輝きを感じます…

筆者の人生は、お子様の宝物となり、永遠に輝き続ける、
消えない愛となり、温もりとなり、
優しさとなる事でしょう…

ありがとうございました…m(_ _)m

2010年01月23日 (Sat) 03:24
kitasendo
Admin:kitasendo