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教育部長の講義日記

家庭連合の教育部長として、統一原理を講義し、思索する日々

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怨讐が出会うのではない

onshu 

怨讐が出会うのではない、出会って怨讐になるのだ

先日行われた二世祝福父母セミナーで本部講師がか語られた中で、私の印象に深く残ったのがこのフレーズです。

文先生(真のお父様)によるマッチングから父母マッチングへと変わっていった時、ある父母がマッチングの意味を深く考え、
「私は怨讐の家庭を探して、自分の子女の祝福を決めよう」
と取り組んだというのです。

「家柄が良いとか、能力が高いとか、自分にとって有利に思える相手を探すのではなく、先祖から怨讐関係にあるような相手と祝福を受けてその関係を克服していく道を選ぼう」

こういう考え方は、信仰的で素晴らしいように見えます。
しかしこの告白を聞いて、「怨讐」は一体どこにいるのかと、その講師は考えました。
そして、冒頭のフレーズに思い至ったと言うのです。

清平などに行って霊界の話を伺うと、遠い先祖の時代に殺したり殺されたりした怨讐関係が複雑に絡み合って現実の我々の生活に深い影響を及ぼしているのだと、よく聞きます。
確かにそういうことはあるのでしょう。

恨み恨まれた先祖の子孫同士が出会って結婚でもすれば、楽な結婚生活はできないかも知れません。
そういう意味では、我々は「怨讐に出会う」のです。

しかし、別の見方をすれば、怨讐を作り出す原因は「私の心」の中にあるとも言えます。
原因となる私の心の中の要素を「堕落性」と言ってもいいでしょうか。

私が誰かに出会います。
その人と私との間に歴史的な因縁があるかどうかは分かりませんが、私がその人の何らかの要素を嫌悪し、恨み、憎むようになると、その人は次第に私の怨讐になっていきます。

そのようにして、私は私の怨讐を創り出すのです。

なぜその人を嫌悪し、恨み、憎むようになるのでしょうか?
その人の先祖が遠い昔、私の先祖の怨讐だったからでしょうか?
その真偽は分かりません。

ただ、怨讐は私の外にいるとだけ考えれば、怨讐の原因は私にはないことになるので、私の堕落性を考えるべき必然性がなくなることは確かです。

文先生が1991年に北朝鮮を訪ねて金日成主席に会われた時、
「怨讐に会うように見えたが、会って兄弟になった」
のです。

堕落性の人にはできないことです。

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