甘い水が種になる
創造原理によれば、陽性・陰性の二性性相は性相・形状の二性性相の属性であるとあります。
なぜなら、後者は前者の相対的関係を持って現象化するからである、というのです。
心は陽陰の調和バランスをもって現れ、体も陽(凸)陰(凹)の組み合わせで千態万象を現します。
この説明も分からないではありません。
それに対して、劉正玉会長はその本体論講義の中で、このような喩えをもって説明をされました。
稲作を例に挙げれば、稲は穂が出れば白い花が咲く。 その花が落ちれば、生じた穂の皮がすぼみながら、その中に乳色の甘い水がたまる。 その甘い水が種になる。 熟す前に稲の殻の中に入っている甘い水は、種とは言わない。 甘い水には種になる要素が入っているだけである。 ところが、一定の期間が過ぎて完熟すれば、初めて種として完成する。 |
この喩えでは、甘い水が性相・形状であり、種が陽性・陰性だということになります。
性相とは何でしょうか。
その本質は「心情」であり、そこから「真の愛」が生じ「人格」が形成されます。
一方、形状の中には「原理」「法度」「秩序」があり、別の面から見れば「万有原力」という根源的なエネルギーが充満しています。
ところが、これらはまだ「甘い水」の状態なのです。
これが時間の経過とともに「種」、つまり陽性と陰性になっていきます。
本体(神様)の陽性、陰性における「種」とは一体何でしょうか。
陽性の種とは、真の生命の種、つまり「精子」です。
陰性の種とは、真の生命の体、つまり「卵子」です。
ということは、神様における陽性、陰性とは、生命の元である「精子」と「卵子」だということになります。
これらがどこから実るのかといえば、「甘い水」である性相と形状からだというのです。
ところで、新しい血統が出てくるためには精子と卵子とが出会う必要があります。
しかし、精子と卵子があるだけでは、彼らは出会うことができません。
この2つが出会えるようにするには彼らを運ぶ「器」が必要なのですが、それが「生殖器」です。
ですから、神様の陽性とは、精子とそれを載せる器としての生殖器を合わせたもの。
一方神様の陰性とは、卵子とそれを載せる器としての生殖器を合わせたもの。
そういうことになります。
ところが、神様の陽性と陰性とは完全同一要素でできており、それらは中和統一状態です。
言わば、凸と凹とが鍵と鍵穴の関係のように、ピッタリと噛み合っています。
ですから、神様は自体内の2つの性を感じることができないのです。
それで、それを感じるためには一旦2つに分離してしまい、それを再び合体させるというプロセスを経る必要があります。
それが、神様が自らの二性性相を男性と女性という二性の実体に分けて創造された理由です。
ところが、陽性と陰性とが出てきた源は性相と形状にありました。
ですから、その2つの性が関係を結ぶ目的は、心情が求める「喜び」にあります。
と同時に、形状には原理がありますから、その喜びを求める求め方は飽くまでも原理的であり、秩序のあるものでなくてはなりません。
これが、人間世界においては、無秩序なフリーセックスではなく、原則に合ったアブソリュートセックス(絶対性・純潔・貞操)というふうに現れるのです。
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