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神様は分かってくれない

kitasendo
hog 

どんなものが真の愛ですか。永遠に投入しても忘れて、また投入する愛です。
なぜそうなるべきですか。
愛の相手が自分より優れていることを願う、その原則を成すためには、神様もご自分以上に投入しなければならないので、投入して忘れなくては、自分以上に投入する道がないために、真の愛の道を、与えて忘れる道を行かなければなりません。
(『天聖経』p.338-339)

真の愛の特質が「与えては忘れ、投入しては忘れる」ということを、文先生のみ言葉で学んできました。
なぜこのような愛が神様の中から出てくるのでしょうか。

愛の源泉は「心情」です。
心情とは、対象を愛することを通して喜びを感じようとする情的な衝動心だというのですが、最高の喜びを感じるためには、愛の対象が最高でなければなりません。

そこで、心情は必然的に「自分よりも優れた対象」を求めるようになるのです。

神様はどうしたら、「自分よりも優れた対象」を持つことができるのでしょうか。
ご自分以外には何も存在していないので、ご自分でそのような対象を創造するしかありません。
創造する主体はご自身であり、また創造の素材もご自身の中にしか存在しません。

そのような神様が「自分よりも優れた対象」を創造するには、ご自分の中に持てるものを何度も何度も、必要ならば無限にでも繰り返し投入するしか方法がないのです。

それで、神様の愛は「投入して忘れる愛」とならざるを得なかった。
そのようにも考えることができます。

このような神様を知ったところから、文先生のみ言葉は次のように続くのです。

「私がこれくらいしたのに、教会は分かってくれず、自分が統一教会を数十年信じたのに、先生が分かってくれない」、そんなことが言えますか。
私が一生の間苦労しても、神様は私を分かってくれませんでした。しかし、私は、分かってくれなかったと思いもしません。神様のように打たれて投入し、また投入しようとするのです。
(同上 p.339)

自分なりに努力をし、それなりの実績も出すと、それを認めてほしいと、我々は思います。
しかし、神様はそれを評価してくださらないのです。
なぜかというと、認めてしまえば、そこで投入が止まってしまい、より高い対象を創造することができなくなるからです。

私たちの努力を認めることは、神様の心情の原則に反するのです。

しかしそれなら、私たちの努力は虚しいのでしょうか。
そうではありません。

そうして、終わりまで投入してみると、それがなくならないで絶えず積もるので、私は自然に山のてっぺんに上がるのです。
その論理は合っていますか。
絶えず投入してみると、私は山のてっぺんになり、世界の頂上の立場に立って、長子権から父母権、王権は、自動的に復帰されるというのです。
(同上 p.339)

真に弛まず投入し続ければ、たとえ神様がそれを認めてくれなくても、創造原理によって間違いなく実るようになる。
努力するのなら、誰かに認められることより、誰が認めてくれなくても投入それ自体に集中するべきだ。
というより、実ることをもって私の投入が本物かどうかが判明するということです。

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2012年09月18日 (Tue) 01:18
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2012年09月18日 (Tue) 15:17
kitasendo
Admin:kitasendo